中学に入学して最初の一年間は、まるで坩堝の中に放り込まれたようなものだと思う。
 なにせ、いくつかの小学校から上がってきた生徒がいっせいに集結するのだから。
 見知らぬ同級生との出会い。しかも小学生の概念に囚われたままだったりするから下手すれば戸惑う。
 それでも要領がよければすぐに何人も友達なんか作ったりもするのだろうけれど。
 ちなみに私はそこまで悪くもないのかもしれないが、決して良い方でもなく。
 みもふたもない言い方をしてしまえばまあまあといったところだ。
 
 初めこそそんな感じだったろうが、一年も経てば程々にこなれてくるものだ。
 同時に、中盤でたるんでくる頃合いでもあるのだろうけれど。
 当然ながら三年になったらそんな余裕はない。
 三年生にはすぐ目の前には高校受験という壁がさしかかっているのだから。
 だからこそ、この比較的のんびりいける一年、本当にのんびりとすごしていこうと思ったのだ。
 
 そのときは本当に、そう思っていたのだ。
 
 

 
 
「きゃー! 遅刻するーー!」
 親の怒声をブースター代わりに私は通学路を疾走していた。
 のんびり行こうと思ったのは確かだけど、それで遅刻していたらみもふたもない。
 こんなことなら昨日読んでいたライトノベルを中断して、もう少し早く眠ればよかった。
 私の家の向かい側に住んでいる幼馴染はとっくに学校へと向かっていた。薄情モノめ。
 まあ、病弱なのだから、私につきあわせて走らせるなんて無理をさせるわけにはいかないのだろうけれど。
 右手にはバターロール。あのゴタゴタの中からかろうじて奪ってきた戦利品。
 本当はこれだけでは足りないのだが仕方がない。背に腹は変えられないのだ。腹が減っては戦が、とも言う。
 右手にあったバターロールをくわえながら走る。走る。走る。
 あー、これで誰かとぶつかったら本当にベタだなぁと思った。惜しむらくはくわえているのがトーストでないことだが。
 なんてバカなことを考えていたら本当に曲がり角で衝突した。ベタだ。ベタ過ぎる。
 私はバランスを崩してお尻を地面にぶつけた。なんて、お約束。
「大丈夫か?」
「あ……ごめんなさい浅宮【あさみや】さん」
 先ほどぶつかったのは、そして転んだ私に手を差し出したのは、同じクラスの浅宮さんだった。
 浅宮さんとの仲は深くない。といっても他人、というほどに遠くない。と思う。
 浅宮さんは一年の頃から私と同じクラスで、格好良くはあったのだが、どこか無愛想なところがあって受けが悪かった。
 勉強は出来るみたいで頭はいい。けどそれを鼻にかける様子はない。というか、無関心なようにも見える。
 そんな浅宮さんに恥をしのんで勉強でわからなかったところを教えてもらおうとしたのが、始まりといったら始まりなのかもしれない。
 最初は、冷たく突き放されるかも、とも思ったのだが、全然そんな事はなかった。
 それどころか親切丁寧に、わかるまで教えてくれた。教え方もよかったと思う。
 だから、無愛想に見えるけど、本当は結構面倒見のいい人なのかもしれない、なんて思った。
 案外教師とか、ものを教える職業に向いているのかもしれない。
「悪かったな。ちょっと考え事をしていたから」
「いえ、大丈夫です。不注意だったのは私のほうですから」
 そうか、と呟き、少し目を細めて私を見る。
 それはちょっと悪戯っぽい。
 なんかこの一年で、わかりづらかった浅宮さんのわずかな表情の変化を少しは察することができてきたと思う。
 本当に、少しなのだけど。
 察することが出来るのは浅宮さんが隠していない表情だけに限るし。
「もう走る必要もないだろう。ここからは歩いても間に合うだろうからな。それと葉籐、そのロールパンは早く食べ終えたらどうだ? お弁当にするのなら話は別なのだが」
 なんて、明らかにからかうような笑みを浮かべて浅宮さんは言う。
 恥ずかしさでだろう。顔がかっと赤くなった。
 ちなみに葉籐とは私のことだ。
 葉籐若菜【はとう わかな】。それが私の名前。
 浅宮さんは「ちょっと珍しい苗字だな。面白い」なんて言っていたことがあったけど。
「それにしても、こんな使い古されたシチュエーションを自分が体験することになるとは思わなかった。惜しむらくは、どちらかが転校生でないことだな」
「もういいじゃないですかぁ……」
 私は俯きながら浅宮さんと一緒に歩いていた。
 顔をあげられないのは、多分に顔が真っ赤になっているだろうから。
 
 

 
 
 教室に入る。本鈴はまだ鳴っていない。
 勝った。と一人でガッツポーズ。
「今日は遅刻しなかったんだね、若菜」
 などという幼馴染の暴言により、余韻は見事に吹き飛ばされました。
「今日はってなにかしら、今日は、って! あいにくですが、そんなに遅刻してません!」
「そんなにということは、逆にいえばまったく遅刻していないって訳じゃ――」
「あら誠司くん。何か言いました?」
 ぎゅむ、とそのほっぺたを思い切りつねってやった。
「い、いいふぇ、な、なにほいっふぇふぁふぇんふぇふ」
「そ。それならいいけど」
 私は頬をつねっていた手を解放した。
 少し赤くなった頬をさすっているのは早坂誠司【はやさか せいじ】。私の向かい側に住んでいる幼馴染が彼である。
 小さい頃からずっとそばにいて、兄弟同然に育ったとか、まあ、そんなやつである。
 だから、苗字でなく名前で呼び合うのは当然だと思っていたし、気にもとめなかった。
 それが、仲を勘繰られるようになる要因になるとは、さすがに小学生時代は思いもしなかったが。
 恐るべし。中学生というステップ。
 一時期は苗字で呼び合うことにしようかという案もあったのだが、どうもらしくなくて、結局のところ今も名前で呼び合っている。
 
 ぽん、と神谷翔子【かみや しょうこ】が藤代環【ふじしろ たまき】の肩を叩き、嫌になるほどさわやかな笑顔で手を差し出していた。
 環は軽く舌打ちすると財布を取り出し漱石さん一枚を翔子へと渡した。
 ……ってオイ。
「あなたたち、また私が遅刻するかどうかで賭けてたの!?」
「まあまあ怒らない怒らない。あたしはちゃんと若菜が間に合う方に賭けてたんだから」
 と、今にも光り輝きそうな笑顔で翔子。
 そういう問題ではない。
「ええ。別に若菜さんが損失をこうむったわけではないのですからよろしいのでは?」
 と、苦虫を噛み潰したような顔をした環。
 だからそういう問題ではない。
「二連続だからもう一回くらいあるの思ったのですけれど……。さすがに読みが浅かったですか。レートを上げたのは失敗でした」
 環、そういうことは他の人に聞こえないように言わないとダメだと思うよ?
 
 ちなみに、私が遅刻せずに学校へ来られるかどうかを賭けていた、この失礼なお二人方は私の友人だったりする。
 翔子は小学校からの仲で、環は中学に上がってから知り合った仲だ。
 その二人とは何かと一緒にいることも多いのだが、さすがにそうやって人のことで賭け事をするのは勘弁してほしい。
 そこ、『だったら遅刻しなければいいじゃないか』なんてのは却下。そんなもの、私だって気をつけている。結果が伴わないだけなのだ。
 ……いや、なら結果を出せと言われたとしても、私にはいかんともしがたいのでありますが。
 起きなきゃいけないって思っているほど、眠りに落ちるって気持ちいいと感じられたりするし。
 
 チャイムが鳴り、担任の先生が入ってくる。
 日直の号令のままに起立して礼をして着席する。
 小学生時代から通して、もはや惰性と化した行為。
 ホームルームでは、特に気になった説明はなかった。
 ホームルールが終了し、一時間目が始まるまでの間、私は誠司のところへ行く。
「最近は調子がいいんだ?」
 そんな私の問い掛けに、誠司は小さく笑って頷いた。
 誠司は体が弱い。
 そのためか、何度か入退院を繰り返していた時期がある。
 そのときはさすがに、なにかにつけ心配をしたものだが、近頃は比較的学校によく顔を出している。
 そして、病弱だからなのか、誠司の顔はどこか白い。陶磁器のよう。中性的で、もう少し髪を伸ばして女装したら、絶対女と間違われると思う。
 いや、実際四、五歳くらいのときに私の服を着せて『誠司ちゃん』をさせてみたこともあったし。
 その際『誠司ちゃん』は半泣きだった気がする。
 認めたくないものだ。幼さゆえの過ちというものは。
 
 その後、チャイムの音と共に一時間目の授業の先生がやってきた。
 ちなみに、授業中に寝るなんてポカはやらかさない。
 どこぞのゲームじゃあるまいし、眠っていたら大概注意されるし。
 じゃあ注意されなかったら寝てるのかと訊かれたら、とりあえずノーコメントとでも言っておく。
 まあ結局のところ、まじめに授業に取り掛かっているというわけでもなく、
 適当に先生の話を聞き流して、惰性的に黒板の内容をノートに写し取っているだけなのだけれども。
 
 

 
 
 昼休み。外からは活動的にサッカーなどやっている男子のざわめきが聞こえてくる。
 誠司はそれを教室の窓から眺めているようだった。
 本当は彼らの中に混じりたいのかもしれない。
 誠司は半ば諦めの表情をしてため息をつく。
 下手に激しい運動をして倒れたら――という危惧が彼の中にはあるのだろう。
 そこまで危惧するほどじゃないんじゃないか、と私は思う。
 だけど、彼は自分のこともそうなのだろうが、それで相手に迷惑をかけてしまうということを何よりも嫌がるということを私は知っていた。
 だからこそ、そこまで高くはないだろうが、その可能性が低くもない以上、積極的に参加する気になれないのかもしれない。
 かくいう私や翔子は、小学生時代こそ男子に混じって遊んでいた記憶があるのだが、
 中学にあがってからそういうことはめっきりなくなってしまった。
 生きていく上での変化は階段をのぼっていくようなものだと例えた人がいるらしいが、まったくそのとおりだと思う。
 かといって怠惰な日常に変革を起こす気分にもなれず、翔子と環とで輪を築いているわけなのだが。
 それはやはり特別なことを話すわけでもなく、何気ない話に収束していたわけなのだけれど。
「そういえば、若菜さんと早坂さんは付き合っていないのですか?」
 そのうちに、何故か、そんな話がもちあがってきた。
「幼馴染だからね。誠司の事はどっちかっていうと弟って感じかな。だから今のところそういう目で見たことない」
 この際、誠司の方が私よりも先に生まれているという事実は無視する。
「だろうね。実際若菜が誰かと付き合うようになったら隠せない、というか、隠さないだろうし。倫理的に問題がない限り」
 あっさりと翔子は言ってのける。だが最後は余計だ。
 確かに、全部を否定できないかもしれないけれど、そこまであっさり言うこともないと思う。
 
 私は横目でちらりと誠司を見た。
 幼い頃から兄弟同然に過ごしていた幼馴染。
 そんな彼と恋仲になった自分を想像してみる。が、うまくいかない。
 近すぎるからなのだろうか、どうもそんなイメージがわかない。
 まだ知らないこともあるのだろうけど、お互いに知っていることは多くて、相性も悪くはないと思う。仲だって悪くはない。むしろ良好。
 だから私が誠司と恋人として付き合うことになっても、おかしなことではないと思う。
 でも、やっぱり今のところ、そんな気は起きない。
 どうも私は、まだまだ恋愛するより友情していたいお年頃のようである。
 もう一度誠司を見る。
 このまま兄弟同然の幼馴染から流れるように恋人、さらには夫婦になるのか。
 それとも、私と彼のどちらかに、別に好きな人が出来るのが先になるのか。
 興味深いテーマではあるが、まだ中学の二年目。結果が出るのはもう少し先になるのだろう。
 私はそう思っていた。
 とりあえず、外野が何と言おうとも、今のところ、早坂誠司は幼馴染でかわいい弟分であるというのが、私こと葉籐若菜の見解であった。
 
 

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