第一話 天使ハ異界ヨリ舞イ降リテ (後編)








 涙が止まり、幸助はベッドから降りた。

 ここは、保健室。どうやらここで寝てしまったらしい。晦は「待っていろ」と言ったが、時計を見るともう午後六時。おそらくもう来ないだろう。

「とっとっ」

 歩きだして、すぐにつまずきそうになる。

 まだ、完全に体力が戻っていないようだ。半日寝てだけで体力が戻るはずも無く、幸助はふらふらと漂うように帰路についた。

 そう、明日から夏休み。

 まさに青春の夏。

 この時からだろうか、平穏な日常が姿を消したのは。

 幸助は、赤く大きな太陽を背に、ふらふらと住宅街へと消えていった。



 ドンドンドン。

「っらあ、起きろこのバカ息子おぉっ!」

 朝。幸助は扉を激しくたたく音で目を覚ました。目覚まし時計をたぐり寄せる。まだ八時だった。

 早い。

 休みの日なのに。今日から休みなのに。

 ゆっくりと体を起こし、立ち上がる。

 ドンドンドン。

「起きろおおおおおぉぉぉーーーーっ!」

 部屋の外では、相変わらずのがなり声。

ドンドンドン。

「・・・・・・ぷち」

ドンドンドン。

「だあああああぁぁぁぁぁぁーーーーーーっっっっっっ!!! 朝っぱらからドンドンドンドンとうっさいわあぁっ!」

 幸助は、あまりのしつこさに我慢できず、窓を開けて思いっきり怒鳴りつけた。

誰かも知らずに。

 ゴッ。

「ぎゃあああああぁぁぁ」

 クリティカルヒット。幸助は頭を押さえて床を転がった。

「誰に口聞いてんだ」

 そこには、右手から煙を上げている、気の強そうな若い女が立っていた。

 この女こそ幸助の母、遥(はるか)である。

「今日から休みだからっていつまでも寝てんじゃないよ。子供はこんなところで寝てないで、飯食ってさっさと遊びに行きな! 片づかないだろ」

 強い口調をゆるめず、遥は頭を押さえてうずくまっている幸助に容赦なく言い放った。

「痛う」

「ほら、早く着替ろ」

 遥はぐったりしている幸助の寝間着をひったくる。トランクスとシャツ一枚になった幸助は、部屋の中に投げ入れられた。

「あ、あうう〜〜〜〜」

 ひっくり返ってあえぎ声を漏らす。

 問答無用であった。ほんとに弱いなこの主人公。

 幸助はしょうがなく仕方なく服を着て、部屋を出た。

「夏休み初日からこれでは先が思いやられるな」

 声がかけられる。

「そうだよまったく。休みなんだからもっと寝かせてくれても・・・・・・」

「一日七時間眠れば十分だ」

「そういうわけには・・・・・・」

 そこから先が言えなかった、言おうと思ったが、思わず目が点になってしまった。

 辺りを素早く見回す。ここは、自分の家だ。学校ではない。

 だが、隣に立っているこの女は・・・・・・。

「う、ウミさん?! どうしてここに?」

 海の瀬晦であった。

「おはよう東、寝起きのお前は余計にしまりがないな」

「何でこんなところにいるんですか? 俺の家ですよ?」

「愚問だな。私が訪問しにきたからに決まっている」

 晦は自慢気に言った。

「は? 訪問? 何で?」

「昨日誰かさんが、『まってろ』という忠告を無視してくれたから。私がわざわざおもむきに来てやったのだが」

「あっ」

 幸助は口元を押さえた。

 幸助が帰った後、ちゃんと晦は来たのである。来ないだろうと思って幸助は帰ってしまったのだ。

 グウゥ〜。

「腹減った」

場の空気を考えない間の抜けた音が幸助の腹か聞こえてきた。それを聞いた晦は豪快に笑う。

「あっはっはっはっは、そこまで元気なら大丈夫だな、はっはっはっは」

「・・・・・・」

 幸助はしかめっ面をしてキッチンに向かった。



「・・・・・・っつうかさあ、何でいるんだよお前ら」

 こういうことだったか。

 幸助は心の中で悪態をついた。

おかしいと思った。晦がただで来ることはないと思っていたが。どおりで朝早く、めんどくさがりな母が起こしに来たのかようやくわかった。しかも「遊びに行け」といっておきながら、しっかりと客を連れ込んでるし。

そこには、キッチンとつながるリビングには、クラスのメンバー数人がテレビを見ながら談笑していた。しかもかなりくつろぎモード。住友までいた。

いくら家が広いとはいえ、呼び込むことはなかろうに。この人達は遠慮というものを知らないのだろうか。

「おっはよー、幸助」

「おっす」

「おはようございます幸助さん」

「邪魔してるぜー」

「よお」

 訂正。絶対知らない。

「何でお前らがいるんだよ!」

「なんでって、なあ」

「ええ。昨日海の瀬先生が今日はおもしろいところにつれくださると」

「で、みんな呼んで来たって訳よ」

「理屈になってなあぁいっ! ウミさん!」

「なんだ」

 晦はちょうどキッチンから出てくるところだった。今まで紅茶を入れていたのだろう、ほのかなハーブの香りが漂ってきた。

「何で許可もなしに人ん家に人連れ込んでるんですか! しかも先生までくつろがないでください!」

「何を言っているんだ、そのために皆を呼んだんだ。暇そうな奴らを集めてな」

「よりにもよって年っっっっっっっっ中暇人な奴らにしなくても」

「許可ならもらってるぞ」

「え?」

「遥さん、いい人じゃないか。人当たりがよくてキップがいい」

 大元の犯人判明。犯人、母親遥。ぐうたらママ。

「かあああああさあああああん」

 幸助は頭を抱えて絶叫した。

「言っても聞こえないよ、たぶん」

「幸助起こしに行ったあとすぐに部屋に入っていって」

「すぐにいびき声が聞こえてきたから」

「今で聞こえてくるはずですよ」

 ポン。

「ん」

 幸助の肩に手が置かれた。優しく、なれなれしく。晦が満面の笑顔で大きくうなずいて。

「だああああああぁぁぁぁーーーーーっっっ!」

 幸助はやり場のない途方感にくれ、絶叫するしかなかった。呆れるしかなかった。



 あれから、幸助の診断が終わってから、晦はまず講堂に向かっていた。講堂にいる奴等の様子を見に行くためである。

幸助を保健室に連れ込んでからかれこれ三十分が経とうとしている。晦の記憶が正しければ、気を失った回りの者達はしばらくしないうちに目を覚ます。もう、起きていてもおかしくはないはずだ。

 ガラリ。

 講堂の窓が開いたのは、晦が窓に手をかけようとしたまさにそのときだった。

「ん? 晦? どうしたの、お前から来るなんて珍しい」

 窓を開けたのは、晦と同年代の同僚教師で親友の、南場麻妃だった。彼女はこの学校で理数系統を教える、晦とはまた違った人気のある教師だ。

 晦は呆れてた。

「えっとなあ麻妃、終業式は、何分で終わる予定だった?」

彼女が最後らしく、鍵を手にしている。講堂の電気は消され中は薄暗かった。もう終業式は終わっているようだ。ということは全員起きたのか。

「一時間でしょ」

 麻妃はきょとんとして答えた。

「時計を見ろ、今何時だ?」

 晦は自分の、高そうな腕時計を指先でこんこんとたたく。

 麻妃はおもむろに自分の腕時計を見て驚きの声を上げた。

「え? あーーーー、まってよ! 二時ってどういうこと?!」

「つまり五時間、だ。・・・・・・お前、寝てたろ」

 晦はからかうように言う。

「え? ええっと」

 麻妃は冷や汗を浮かべながらたじろいだ。麻妃は晦とは違い分りやすい、そこを指摘するとためらってしまうのだ。この反応は、つまり図星。

「寝てたな」

 ニヤリ。

 とどめを刺す。

「わ、悪かったわね、寝てたわよ。そりゃあもう爆睡よ。・・・・・・恥ずかしながら」

 こめかみをかきながら、言葉通り恥ずかしそうに麻妃は答えた。

「私の推測だと、麻妃だけじゃないだろ。寝てたのは」

「よくわかったわね。その通りよ」

 麻妃は講堂から出て鍵を閉めながら言った。

何も疑問に思わないのは彼女のいいところでもあり悪いところだ。まあそこを晦がカバーしてきたのだが。

「はあ、あんたはね。まいいわ、実は・・・・・・」

 職員室に向かう廊下を歩きながら、さっきおこったことを非常にわかりやすく晦は簡潔に麻妃に説明した。晦が予測していることも含めて。

「へえ、そうなんだ」

 説明を聞いても、麻妃はそう言った。驚きもしなかった。平然とした顔のまま

「でも、晦の想像しているので良いんじゃない?」

と、言ったものだ。

「それ、かなりおもしろそうだから、私にもサンプルちょうだいね」

「まかせな。だが、研究は私がやらせてもらうぞ。最近は研究なんぞしてなかったからちょうど良い」

「しょうがないなあ、今回は譲るよ。楽しそうね、晦」

「そうだな。久しぶりに腕が鳴りそうだ」

 晦は嬉しそうに言った。

「確か、いつだっけ? 新型ウイルスの特効薬作ろうとして、青カビとビフィズス菌とモネラ菌を大量繁殖させて研究所パニックにしたやつ」

「おお、なつかしいな。それで新型ウイルスの特効薬じゃなくて、肩こり腰痛に効く薬ができたんだっけかな」

「その研究・・・・・・だよね、博士号とることできたの」

「私と麻妃が十五の時だな」

 いつのまにやら思い出話に浸っている二人だが、聞いていると、何か無茶苦茶やってるな、おい晦、何かするんじゃないのかよ。思わせぶりだかあんたは。



とまあそれはそれで置いておくとして、皆は何かを忘れていないだろうか。

講堂ステージ。その奥、カーテンに遮られた薄暗い控え室。積み上げられていたパイプ椅子をひっくり返し、その中に埋まっている肉団子がうめく。 

「おーい、誰かおらんか。暗いぞ、ここは何処じゃ、助けてくれ〜〜」

 締め切られた講堂の中で、むなしく響くおっさん(校長)のうめき声は、誰の耳にも届きそうにない。

 つうか誰か気付け。もう夜だぞ、おい!



 夕方になって。

「ったくよお、何が悲しくて俺が片付けをしなきゃならねえんだ」

 幸助は半泣きになりながら、リビングを片付け手いた。そりゃあもう見事見荒らされた部屋からは、とても元々が綺麗だったことを思わせない豹変ぶりだった。

「あんたの友達なんだろ、だったらあんたが片付ける!」

 幸助の横では腕を組んだ遙が仁王立ちして、幸助を見下ろしていた。

「理屈になってねえよ」

「文句言わない!」

「へーい」

 頭をたたかれて、渋々と手を動かす。元々何もしない人だから、結局は自分が片付けなければならなくなってしまうのだが・・・・・・。

「母さんもたまには顔を出してくれよ、今日は父さんもいないんだし、俺が結局昼飯作ったじゃないか」

「何であたしが人様の飯を作らないと行けないんだ?」

「すいません、聞いた俺が馬鹿でした」

「よろしい」

 時折自分が悲しくなる。

 何故にもこんなぐうたらな母親を持ってしまったのだろうか、と。今悔やんでも仕方ないことだが、この自己中ぶりは天下一品だ。これで料理が趣味だから、世の中どうかしている。

「手が止まってる」

「はいはい」

「そういえば」

「何? 母さん」

 突然思い出したかのように手を打ち合わせ、何かを取りに部屋を出て行った。

「なんだろ」

 そして掃除を続けていると、遙が戻ってくる。

「これこれ。あんたの担任って人からだ。中身は見てないから安心しろ」

「そういうことを平気で言うなよ」

「まあいいじゃねえか、で、なんて書いてある?」

「そうせかすなって」

 そう言って幸助は受け取った何の変哲もない茶封筒の封を切って中身を取り出した。

 すると中から、三枚の紙が出てきた。

「えっと、どれどれ、『さて、体調の方はどうかな実験台一号君』っていきなりこれかよ」

 最初の一文で幸助は誰か分かってしまう。最初に誰からか聞いてはいたものの、こうも分かりやすければ、逆に呆れるといものだ。続きを読む。

「『先日あったあの出来事の原因を、不確定ながらにではあるが突き止めることができた』だって」

「なんかあったのか? 学校で」

 遙が聞いてくる。

「いやたいしたことじゃ・・・・・・ってあれ絶対たいしたことだよな、・・・別に気にすることはないと思う」

「そうか。じゃあ掃除の続きだ!」

「手伝ってくれるのか?」

「さっさとやれ」

「やっぱり」

 幸助は手紙をポケットに突っ込んで掃除を再開した。

「なんでこうなるんだよおー」

「何か言ったか?」

「いや、別に」

 非常に不条理だと言ってやりたかったが、小学生の女の子に腕相撲で負けるほどの幸助は、素直に遙のいうことを聞くのであった。

「終わったあ」

 一通り片付けて掃除機をかけた終わった所で、幸助はソファーに突っ伏した。こう言うことをすると、嫌々ながらにでも、終わると気持ちいいものだ。さすがに大量がない幸助にはかなりきついが、それでも完膚無きまでに掃除を遂行することができた。

「元々、ウミさんがみんなを呼ばなければこんなとには」

 そう、確かに大本の原因は晦にあった。暇な彼女が、暇な学生達を連れて、いつも暇な東家に遊びに来たのが大本の原因なのである。おかげで無駄な苦労が増えたというものだ。

だが、今の幸助には、晦を呪うほどの体力がもはや残っていなかった。

「飯―」

 キッチンの方から遙の呼ぶ声が聞こえる。

「やっと晩飯だあ」

 こうして東家の夜が訪れた。夏休みの最初の日、幸助は無駄な徒労で一日を終えた。




       †







 夢を見た。

 何処かも知れない草原の真ん中に立って、涙を流している夢を

 そこには何もなく、緑のじゅうたんが広がっているだけだった

 何故自分が泣いているのか、俺には理解できなかった

 風が、拭いた

 そよ風という、生やさしいものじゃない

 思わずよろめいてしまいそうな、突風

 その風に、涙を取られながら

おれは動かないまま、滲んだ視界で空を見上げていた

どんよりと曇った、気持ちを不安にさせる大空

ふと、視線を下ろすと、そこには少女がいた

花畑にいたあの少女が、うつむいて、俺の方を向いて立っていた

前見た時にあったはなは、もう全部摘んでしまったのだろうか

あの量を?

何のために?

少女の表情はうかがえない

前髪が長くて、口元しか見えない

だが、その口元は優しく微笑んでいる

 少女が、こちらに向かって歩き出した

 俺に近づいてくる。

 俺はそれに触れようとして

 

 空を掴んでいた

 

 少女は俺の体を『すり抜けて』消えていく

 何故かそれが、とても悲しくおもえて

 怒りがこみ上げてきて

 俺は何をしているのだろうかと

 俺は

その場にうずくまり

頭を抱えて泣き叫んだ

声の出る限り

ずっと

何もかもがどうでもよくなり

闇の縁へと静もとした俺に

光が

光が、さした

それはとても暖かく

穏やかで

優しい光だった

その光りは、先程の少女が出す光だった

俺は見捨てられたわけじゃない

そう思うと、また涙が止まらなくて

とても嬉しいのに

頬を伝わるこの熱い滴は

ずっと耐えずに流れ続けて

でもよかった

俺は捨てられた存在ではない

でもどうしてこ涙は

ずっと流れるのだろうか

その涙を止めることもできずに

その場にうずくまって

泣き続けて

でも

そんな俺を

少女が優しく包んでくれる

俺はその抱擁に包まれて

泣きながら

静かに眠りについた

ゆっくりと・・・・・・

暖かくつつまれて

俺は

ずっとこのままでいいと


そう思った








 今日の目覚めは最悪でもなく最高でもなく、ようは普通の目覚めだった。

 ぼーっとした頭のまま、幸助はベッドから起きあがり、朝の空気を部屋に入れるため窓ガラスを開けた。

「おっはよ」

 朝の心地よい風と、元気な女の子の声が入ってきた。

「ああー良い天気」

 幸助は伸びをする。

「相変わらず朝はしまりがないね、ま、いつもしまりはないけど、あははは♪」

 冷たい朝の風と共に女の子の声が流れ込んでくる。

「うわあーあ、うーん」

 幸助は先程から入ってくる女の子の声を真っ向から聞き逃していた。

「幸助さーーーーーーーーん、おっはようございまーーーーーーあす」

 キーーーーーーン。

 幸助は朝の第一発目から脳天に響く金切り声を聞かされ、ビリビリと響く耳を両手で押さえた。

「ああ、うっさい! そんな大声出さんでも聞こえるわ!」

「だって何も言ってくれないんだもーん」

 窓の下には、まだ年端もいかない小学生ぐらいの女の子がいた。ショートカットで、可愛い目つきの元気な女の子だ。名を美鳥という、近所のよく遊びに来る子供だった。親が知り合いだからとかでは全くなく、単なる近所のガキである。

「頼むから、幸せな朝の一時をぶちこわさないでくれ」

「やだあ、美鳥と遊んでくれるまで今日はここにいるよ」

「ったくなんで俺の回りにはそんな奴等ばっかりなんだ」

 幸助は頭を抱えて唸る。

「それに、今日は私だけじゃないんだよ」

「え?」

「わあっ!」

 すると突然幸助の前に住友の顔が現われた。

「うおおうっ!」

 幸助は思わずのけぞって尻餅をつく。幸助は腰を押えながら、窓から顔を出す見慣れた少女の名前を呼ぼうと顔を上げて、顔を見て声を詰まらせた。

そこには、いつもの丸眼鏡が外され、髪をまとめず自然にたらした住友の姿があったのだ。何というか、いつもと雰囲気が違っていて、これはこれで似合うではないか。特に眼鏡を外していると、大きなぱっちりした瞳が際だって、・・・・・・いい。

「おっはよう幸助。夏休み早々そんなのじゃやっていけないよ、もっと気合いを入れなさい」

 だがその可愛らしい口元か飛び出したのは、いつもの住友の声だった。当然といえば当然だが、幸助はげんなりとする。

「朝から私服で珍しいと思えば、説教かよ」

「んんと、今日はそうじゃなくて、お買い物に付き合ってもらおうかと思って」

「はあ? 買い物ぐらい自分で行けよ」

「・・・・・・嫌なんだ」

 住友は突然、困ったような、それでいて寂しいような、憂いを帯びた表情を作った。これはこれで来る物があるが、幸助はこの住友の表情にとことん弱かった。

「分かった、分かったよ、いってやるよ。いいからそんな顔をするな、話づらい」

「やった美鳥ちゃん、荷物持ちゲット」

 すると、いきなり普通の表情に戻った。

「え?」

「「イエーイ」」

 なんぞと近所のガキとクラスメイトの少女がハイタッチをしているのを見て、幸助は初めて騙されたことに気付いた。



「ふああーあ」

 外に出てからまだ数分も経っていないと言うのに、幸助の脚はすでにふらついていた。

 しまった、帽子でもかぶってくればよかった。と、心の中で嘆いてももう遅い。元気な二人はどんどん先を進んでゆく。

 幸助は、この直射日光に弱かった。貧血ではないが、何せ体力がゼロに等しい人なのだ。足元をもたつかせているうちに、だんだんと距離が離されてきた。ふと顔を上げると、遙か遠くに手をつないだ二人がいる。

「やばい」

 心理的ではなく、本能的にそう思った。

「日陰に入らないと」

 幸助は突然に方向を変え、別の道を歩き出した。二人は話しに夢中で幸助に気付いていないようだ。そして、当の本人も。



パアアアアーーーァァン。

幸助は、その車のクラクションの音で我に返った。辺りを見回すと、信号が青で、横断歩道のど真ん中に立っていた。どうやら意識がもうろうとしているうちにここまで来たらしい。だが、回りにあるその建物も幸助の知らないものばかりだった。

とりあえず、向いている方向に横断歩道を渡りきってしまうことにする。

わたりきってから、幸助は再び辺りを見回した。

町並みからして、町の中心部に近い所まで来たらしい。神経質そうなサラリーマンや、暇つぶしにぶらぶらしている学生、今からプールに行くのか、水着の入ったバッグを抱えて走っていく子供達の姿などがうかがえる。

アスファルトから立ち上る陽炎を見て、幸助は立ちくらみがしてよろめいた。

誰かに見られている気がする、最初にそう思ったのは空を一瞬だけ見上げた時だった。振り返り、反対側も、誰も自分を見ているような人物などいない。むしろ人より、獣のような視線か。ともあれ、幸助の不安をかき立てるには十分だった。

天を仰ぐ。真っ白の綿飴のような雲が、青空にいくつも漂っている。視界が、渦を巻いたような気がした。

「増えた?」

 辺りを巨巨路と何度も見渡すその姿を、不快に思ったのだろう。通すがる人々は目線をあわせないようにして、幸助を裂けるような流れに変わった。

 幸助の、聴覚が機能を停止した。

「え?」

 幸助は自分の耳を疑ったが、やはり、完全に周りの音がシャットアウトしたようだ。

「これは?」

 まるで、幸助だけ別世界にいるような感覚だった。隔離されたという表現の方が正しいだろうか、永遠に抜け出せない迷宮に迷い込んでしまったかのように、果ては出口をがむしゃらに探すように、幸助は必死に辺りを見回し、そして歩を進めた。

 歩かなければ、何かに取り残されるような気がした。だから歩いた。よろめきながら、周りの風景がどんどん流れても、歩き続けた。

 ・・・・・・そして。






 ピチャン。

 水滴のような音がして、幸助は顔を上げた。

 そこは、全くの知らない世界だった。だが、青い空と雲だけは、変わらず天にある。

 一面の花畑が広がっている。何処かで、見たような気がした。この風景を、そう夢の中で!

 確信に浸った時、何も聞こえなかった耳に、少女の鼻歌のようなものが聞こえてきた。

 幸助は振り向く。

そこには、白いワンピースドレスを着たテールの女の子が、楽しそうに花を摘んでいる姿があった。一つ摘んでは鼻に近づけ、臭いを確かめるようにしてから脇に置いてあるバスケットの中に入れていく。その仕草がとても愛らしく、幸助は不意に混ぜてもらいたいと思った。

だがそれはかなわない。近づこうとしても、体がいっこうに動かず、身体の自由を失っていた。

少女が頭を上げた。遠くて表情はうかがえないが、小首かしげ、微笑んでいるのが分かった。こちらに向かって微笑んでいるようだ。少女はバスケットを持った血上がり、かけって幸助の元に近づいてきた。

幸助も思わず口元がゆるむ。

だが。


ドン!


辺りの花をまき散らしながら、一つの大きな刃が天から振ってきて、ちょうど幸助と少女の中間に突き刺さった。幸助の顔が驚愕に変わる。

だが少女は足を止めずその剣の元に駆け寄ると、何のためらいもなくその刃の柄を握った。

それを少女が地面から引き抜いた瞬間、幸助は少女の表情を見ることができた。だが、それは少女のもではなく、いつの間にか少女から姿を変えた女の表情だった。自信と誇りに満ちた不敵な笑み。女は手早くその刃を振り抜くと、咲いていた白い花が、無数の花びらを舞上げた。

幸助は思わず身をかがめて身を強ばらせる。

再び目を開けば、そこは幻想的な世界があった。自分を取り囲むようにして無数の白い花びらが舞っていたのだ。音も風も感じず、幸助は、先程の町にいた時と同じ感覚を覚えた。


追い風受けて我は行く


幸助の心に声が届いた。これも何処かで聞いたことのある声。あの講堂で聞こえた声だ。


多くの命背負い、我、戦場に赴く者なり

戦地に降り立つ天使とは、すなわちそれ我をさす

青い炎は身を焦がし、追い風を受けさらに激しく燃え上がる

その炎は我を包む鎧、追い風は我の翼

我、汝の盾となり汝の世に降臨せん

汝の敵は我の敵

汝がそれを望むなら、我は命を捧げよう

我が刃は風のごとき刃

汝が我を呼ぶ

我の名はヴァルキリー!


 花びら一枚一枚が光を帯びてきた。それらは一つ一つが強い光を発し、視界を光で埋め尽くす。




 パアアアアーーーァァン

気付けば幸助は、あの横断歩道を渡りきった所から一歩も動いていなかった。

今のは一体何だったのだろうか?

そう表幸助は頭を上げた。

「エッ・・・・・・?」

 そこには女が立っていた。翼を生やした、青い鎧を着た女が、幸助の目の前に立っていた。先程の女だ、間違いない。

その女は、幸助と目が合うなりこう言い放った。

「あなたが私のご主人様?」

 幸助の脳回路は焼き切れる寸前だった。




                             《第一話・完》


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