第一話 天使ハ異界ヨリ舞イ降リテ (前編)





今日は快晴、雲一つ無い青い空。心地よい風も吹いていて気持ちの良い天気。しかし東幸助は、その天気をひっくり返したような、まるで地獄を見たかのような表情を浮かべていた。

季節は初夏、春の風に湿気が混じり始めた今日この頃。

真横を通り過ぎていく他の生徒達を、やる気のない半眼で眺めながら、やはりやる気のなさそうな気だるげな表情で、うつむいたままとぼとぼと歩いていた。

何人目かの生徒が幸助の横を通り過ぎ、しばらく歩いてやっとその情けない顔を上げる。

道路が陽炎で揺らめいているのが分かった。アスファルトから舞い上がる熱風が、幸助の集中力をさらにえぐりとっていた。

おかげで意識も半ば抜け落ちている。

どれもこれもこの天気のせいだろう。何せ暑いのだ。

昨日は一日中雨が降った。そして今日は、昨日で絞りきったのか、雲一つ無い快晴だ。アスファルトから舞い上がる熱風は、大量の湿気を含んでいるのだ。

これで暑くないと言えば誰でも嘘になるが、しかしこのぐらいの暑さでへばるのもどうかしている。よほどの貧血か、体力がないか、もしくは両方か、一般の健全な青少年ならへばる暑さではない。この中でも、幸助は後者に入る。

「あづぅー」

 情けない声を上げながらでも足を動かし続けるのは、学生たる『遅刻したくない』根性を発揮しているからだ。そうでなければそもそも家からでない。

 しかし、無理して学校に出るのも今日で終わり。明日から念願の夏休みにはいるのだ。

 自分に補講授業がなければ、の話だが。たぶん大丈夫だ、と自負しているのだが少し怪しい。

「そうつまり! 欠点ギリギリの数学と現社を落とさなければ、ただ国語に名前を書いてなかったような気がする。あの時は眠たかったもんなあ」

 意気込んでるわりに、大丈夫かおい?!

 結局何を言っても説得力のかけらもない。幸助はため息を一つはいてから、また情けない表情に戻った。

「はあ〜」

 力説するだけ無駄だ。ただの馬鹿だ。聞く者も、聞いてくれる者もいないのである。

しばらくとぼとぼ歩いて、ふと立ち止まった。

気付けば辺りに人影がない。

慌てて腕時計を見る。残り五分で予鈴だった。

「しまったあああああ」

 幸助は絶叫をあげながら、弾丸のように走り出した。うん、やればできる。

 門番には《級長》が待ちかまえているはずである。あいつは呼び鈴が鳴ったと同時に門を閉める厄介者だ。

 だから、予鈴がなる前に校門を抜けなければならない。

 脚をフル回転させて前進全速、スパートをかける。といっても大分ノロいが。

 がああっと(気分的に)ドリフトしながら角を抜け、そのまま校門に・・・・・・。



「遅刻!」

「はひ? ち、遅刻じゃ、ねーよ。ぜーはーぜーはー、流体力学による風の、抵抗がな、はあはあ、直射日光による高温で、意識半途絶も相成って、はあはあ、気付けば、時間が勝手に進んでいたんだ、はあはあ・・・・・・つまりだな・・・・・・」

「結局は遅刻! どんな理由があっても、時間内に来なかったら遅刻なの。分かった?」

 幸助は方で息をしながら頭を垂れて、校門の前で仁王立ちしている少女のまえで言い訳を言っていた。

「まったく、これで何回目だと思ってるの?!」

「に、二十七回だ」

「そうじゃなくて、少しは反省しろって行ってるの! 大体そんなんじゃ卒業できないのよ?」

「大丈夫だ、卒業はする!」

「何を根拠に・・・?」

「そもそもテストを平均以上取っていれば問題ないのだっ!」

「平均も取れもしないお前が言うなっ!」

「いや、英語は満点の自信がある!」

「エ・イ・ゴ・だ・け・で・しょ・う・が! 他はどうなのよ、平均より全部下回ってるんじゃないの? それとも挽回策があるって言うの?」

「そこを英語でカバー・・・・・・」

「できるわけないでしょっ! 馬鹿なこと言わないで! 何科目あると思ってるのよ、そんなの何の足しにもならないわ」

「卒業はする!」

「まだ言うかこのスカポンタンっ! ほら、行く!」

 少女は幸助の背中を叩いて促すと、幸助の隣りに並んで歩き出した。

 少女の名は三井住友。かの有名な保険会社・・・ではなく正真正銘の名前だ。気が強くて頭がよく、運動はそこそこなものの学力では学年トップを維持する、生真面目の中の生真面目。学校に一人は絶対にいる文武両道優等生タイプ。チャームポイントは、大きな丸眼鏡と首後ろで二つにくくった髪。

 ちなみに幸助とは中学以来の腐れ縁。

「ったく、幸助君も体鍛えなさいよね。それでなくとも非力で馬鹿なんだから」

「言っとけ・・・・・・」

 幸助は投げやりに呟いた。・・・別に好きで弱いわけじゃないのだ。別に体を動かすのが嫌いなわけじゃない。鍛えていないわけでもない。ただ、いくら運動しても力が付くどころか余計に疲れがたまり、何の効果も無い上に次の日に支障が出るのでしないだけだ。こんな事を言っても信じてくれないので何も言わないようにしているだけである。

「そんなんだと、いつか怠け者になるぞ」

「もうなってる」

「自覚しないの!」

「へいへい」

「早く行こ、本鈴がなっちゃうよ」

 住友は幸助の手をとって走り出した。

「あ、ちょっ、ちょっと待てよ、引っ張るな! ってゆうかマジやめろっ!」

問答無用。住友は抵抗する幸助に耳も傾けず、幸助を引きずっていった。

それほどに幸助は非力だった。



「いつも大変だな、三井」

 教室に入るなり教卓の前に立っていた教師が、二人を呼び止めた。もうショートホームルームは始まっているようだ。

「いえ、もうなれました」

「ふ、まあいい。今日も東は遅刻。席に座れ」

「はい」

「・・・・・・へーい」

 住友が幸助の尻を蹴たぐった。

 教卓の前に立っている教師、海ノ瀬 晦。副養護教諭であり、自称カウンセラーとして、幸助のクラス2年4組を、年端十九の若さで担任している。髪が長く瞳を全て覆い隠して暗い印象を与えがちだが、その見た目とは裏腹に存外に明るく、そして誰とでも気軽に話せる性格の持ち主で生徒他、教員達人の間からも人気が高い。

 大学院を飛び級で首席卒業し、十八で博士号の資格を得ている、という噂もあるがそれは事実で本人も肯定している。

「で、だな、今日は授業としての授業は特にない。終業式の後、掃除、LHRで下校。まあ、終業式のあのハゲジジイの話は寝てていい。聞いていなくてもどうせくだらない内容だろ。聞くだけ無駄だ」

 ここでの『ハゲジジイ』とは俗に言う『校長』の意味で、晦の口からはよく発せられる言葉だ。他には『エロジジイ』『カツラン』『木偶の坊』『雷親父』『頑固者』『ロリマスター・島』『デンジャー島岡』などの多彩なバラエティーがあり、これらは全て、晦が校長を皮肉る言葉として現在進行形で使われている。

「私としては、終業式はなくていいと思うんだが。ま、これは寝てればすぐに終わる、掃除も大掃除とは謳っているが、一日でそんなには汚れんだろう。いつも通り適当にやったら教室に戻れ。その後は・・・・・・」

 晦は一呼吸おいて、細く笑んだ。

「お楽しみの通知票を返す」

『ええ〜』

 クラスの中が一斉に不満を漏らした。

「そう嬉しそうな反応をするな。私だって成績についてとやかく言うつもりはない。その後少し連絡事項があって終わり。今日の日程は以上。じゃ、次のロング(LHRのこと)で」

「先生、終業式出ないんですか?」

「誰が出るか。あんな堅苦しい教師達に囲まれてたら窒息する」

 そこで、「出ない」とさも当然のごとく言いはれるるのはこの学校で晦ぐらいだろうか。この人はこういう人だ。

「起立、礼」

 住友が号令をかけて、その場は解散になった。

「東」

「はい、何でしょう」

 教室を出ようとした幸助を晦が呼び止めた。

「お前は私の部屋に来い」

「でも、終業式・・・・・・」

「でなくていい、お前は行ってもどうせ寝るだけだろ? ならせめて私の暇つぶしに付き合え。そっちのほうがよほど勉強になる」

「・・・・・・はあ?」

「教師命令、用事が済んだらすぐに相談室に来なさい!」

「・・・・・・」

「返事は?」

「嫌ですよ、嫌にきまってる」

「・・・・・・ほう? 大分ましな口を開くようになったじゃないか」

 晦は不敵な笑みを浮かべた。どうやら晦の予想外の反応を幸助がしたらしい。幸助としては断ることが当然なのだが。

「褒めても何も出ませんよ、嫌なもんは嫌だ」

「ふむ、そうか」

「いかない」

「ふん、来たくないならそれでいい」

「元々そのつもりです」

 晦はきびすを返す。

「・・・・・・」

 晦が歩き出したのを確認して幸助もきびすを返した。

「・・・・・・実験台?」

 ボソリ、と聞き取れるかどうかも分からないような晦の声が聞こえた。その晦の独り言にものすごい後ろめたさを感じ、

「はあああああぁぁぁ〜〜〜」

おもーいため息を漏らした。



 幸助、いつになく真剣です。その二十人後ろぐらいで、住友も何処か真剣な表情。そりゃ当然です。何たって校長先生の話ですから。校長の『魔の長話in孫の自慢話』をかれこれ三十分、エンドレスで聞かされているのだ。ある意味、ドナドナを1時間聞かされるよりも辛い。生徒が寝ていると説教がプラスされ時間が2割り増し、そうなるとヒートアップして孫の自慢、さらに3割り増し長くなり、機嫌が良いとプラス四割り増し、悪いと五割り増しの時間になってしまう。総計1時間半はくだらない。

 真剣な表情を見せている幸助も、実のところ強烈な睡魔と脱力感に襲われていた。

「・・・・・・よっしゃ・・・」

 幸助はある固い断固たる決意をした。

「・・・・・・寝る!」

 魔の長話でついに睡魔が臨界点を突破し、幸助は頭を垂れた。

もう限界であった。強力な睡魔、それに圧力をかけるようにして体が動かなくなってくる。視界がぼやけ、意識がもうろうとし始めていた。

 そして、今までのどの睡魔よりも遙かに大きかった。

 今回は、どうも『寝る』だけではすまないようだ。そんな気がした。

それとほぼ同じくして、幾人かの頭が垂れる。やはり眠気限界なのだろう。それを鍵として、もう1人、さらにもう5人、7人、12人と次々に意識が飛んでいく生徒達が続出し始めた。ただ、ここで校長の説教は、不思議と出て来なかった。よほど話しに夢中なのだろうか。

 ・・・・・・十分後にはついには9割の生徒、教師までもが夢の世界えと旅立っていた。

「・・・・・・でじゃ、そこでわしが言ってやった。『お前のほうがよっぽど可愛い』とな。そりゃあ嬉しそうな顔をしおったわい・・・・・・」

 にもかかわらず校長は話し続けている。

 さらに十分後。

「・・・・・・ちゃんがのお、『おじいちゃん遊ぼう』ってなあ、かあっ、もうたまらんっ!・・・・・・」

 二十分後。

「・・・・・・わしは孫に奮発して・・・・・・をやったんじゃ・・・・・・」

 ・・・・・・様子が、おかしかった。

もはや2時間が経過している。いくら何でも長すぎた。校長といえば、まるでいかれたカセットテープのように、何の感情もなく無機質に話し続けている。

 生徒はというと、・・・・・・残念ながら意識を保っているものはいない。教師も同様だ。ただ、講堂が異様な空間に包まれていた。

『・・・・・・ウザイナ』

 ―――ドクン・・・・・・。

 寝ている幸助の耳に、地獄のそこからわき上がってくる様な声が響いてきた。


ゾクッ


悪寒が走る。

『・・・アノハゲ・・・・・・・・・私ガ・・・消シテヤルゾ』

 寝ているにもかかわらず、幸助ははっきりその声を、飛んだ意識の中で、はっきりと『聞いた』。

 それにより、意識が完全に覚醒していく。

『・・・・・・開ケロ・・・「呼ベ」・・・我ヲ・・・・・・呼ベ・・・・・・』

「・・・うう」

 校長の声意外なにも聞こえない静寂しきった講堂に、幸助のうめき声が漏れた。

 熱い。苦しい。胸の奥底がとてつもない熱を帯びて、胸が張り裂けそうな感覚。喉元を切り裂きたくなるようなかゆみ。硬直しきった体。そしてどこからか聞こえてくる声。

『アイツノ・・・話・・・ヲ・・・聞クノガ・・嫌・・・ナノダロウ?』

 幸助の意識は、自分の回りに向けられていた。体が動かせないだけに、頭も上げることができないのだ。耳に神経を集中させ、音だけでも状況を把握する。それを侵害しようとする、心に響く声を聞かないようにして。

『呼ビカケルダケデ・・・良インダ』

(それができないんだっつーの)

 スピーカーから漏れる、校長の無機質な声は相変わらず・・・・・・。

 それでも、起きて気付いたことがあった。

 生徒達は、完全に意識を抜き取られたようになっているようだ。物音どころか、寝息さえ聞こえない。

「・・・・・・」

 声が出そうで出ない。これが、非常に幸助を苛つかせた。

 うつむいているので回りがどうなっているのかも分からない。声だけでも出れば、回りの反応も確かめることができるのに、それもできないのだ。

(どうにかなんないのかよ)

 ・・・・・・しばらく、動けないままじっとしていた。


 ガシャンッ!


 いく分か経って講堂の扉が勢い良く開かれた。

『チッ・・・邪魔ガ入ッタカ』

 心の中に響いていた声が消える。消えたと同時に、体に自由が戻った。

幸助は立とうとした。だが体力がないのか足下がもつれ、その場に崩れ落ちた。

「東!」

 声がした。晦の声。そして駆け寄ってくる音。

幸助は出席番号が「あ行」なので一番前、つんのめりに前に倒れたが、前に誰もいなかったことは幸いした。

「どうした。どうなっている」

 晦は、崩れ落ちた幸助を何とかおこし、そう聞いた。

「分からないんだ。ただ、気付いたらこれだった・・・・・・と思う」

 そう言って幸助は力無く教壇の校長を見上げる。

 確認が取れなかった以上、確信することはできない。

「あまり煮え切らんな・・・ん? ああ、あいつか、相変わらずムカツク面して・・・・・・」

 幸助がずっとステージに視線を向けていたことに気づき、晦は感想を漏らした。

「・・・・・・そうじゃなくて。・・・・・・まあ確かに――」

 幸助は話すのも億劫と言った様子でつぶやき、晦に視線を戻した。への字に口元を閉めた晦が校長を見据えている。

「―――気付いてからずっとあれ、止まっていないような気もする」

「止まらない?」

「先生こそ、どうしてここに?」

 それを聞いて晦は呆れたように民樹を吐いた。

「アホたれ、終業式にだらだらと三時間もかけすぎだ」

「・・・なるほど」

 つまり、止めさせに来たのだろう。心配して、ということはこの人に限って絶対にない。

「・・・・・・あの面、いつみてもムカツクな。さすがデンジャー島岡、鼻の下が異常に長い変態痴漢魔」

「それとこれとは関係ない、しかも言い過ぎ・・・・・・」

 幸助が言い終わるなり、晦は面倒臭そうにゆっくりと立ち上がった。拳の握り加減を調整し、歩き出す。

「・・・先生、一体、何する気ですか」

ずかずかとステージに上がり、・・・驚くことに校長の横面を『グー』で殴り飛ばした。

「なっ・・・」

まるまると太った肉のかたまりが吹き飛ばされた。数回ゴム鞠のように弾んで、ステージの端まで滑り・・・・・・静かになる。

 幸助は突然そんな行動を取った晦に驚いたが、何故かすかっとした。

「黙らせばどうってことない」

「っつうかやりすぎ。・・・センセ」

「何だ」

「みんな寝ちまってるのは、・・・・・・どうしてですかね」

「ん。知らん。・・・だが、気絶してるな」

 晦は教壇から降りながらさらりと言った。一目でそう『気絶』と判断できるのは、伊達に白衣を着ていないということか。というか誰でも分かることかもしれないが。

「東のほうがどちらかというとやばい」

 ニヤリ

「え?」

 意外なことを聞いたかのように幸助は驚いた。何かたくらんでいるような気配。

「お前のその状態からすると、・・・・・・そうだな、呼吸器を付けて何日も意識が戻らないぐらいの症状だ」

 ニヤリ

「ええっ?!」

「体力がまったく残っていない。見れば分かる。ふっふっふ。・・・・・・体に熱がないし、偉く軽い。・・まともに飯を食ってるか? ・・・顔色も最悪だ、血が通っていることすら疑いたくなる」

「考えてる考えてる」

 ニヤリ

「ま、まじなのか・・・? か、かなり嘘っぽいけど・・・・・・」

「こいつ等は放っておいても大丈夫だろ」

 ガシィッ!

 逃げようとする幸助の襟元を晦は素早くつかみ取った。そのまま引きずって講堂を出る。非力な幸助は何の抵抗もできなかった。

「お前は重症だ、私の診断を受けろ、お前にはその資格がある!!」

「な、何を根拠に、っていうか何でこうなるんだろ、つうか命令形?? い、嫌だ嫌だ、放せっ! 俺を解放し、比較的速やかに撤退しろーっ!! 誰かーって誰もいねえっ!! いやーっ」

 半泣きになりながら情けなく養護教諭引きずられていく幸助。

何かをたくらんでいる『気配』でなく、『確実』にたくらんでいるようだ。



「・・・・・・どうですか先生」

 ここは保健室。

幸助は丸椅子に座らされ、晦の独断診断をやらされていた。背中に聴診器をあて心音を確認する、晦の表情が険しい。

「何故だ、何故異状がどこにもないんだ」

「当然です。保険医として喜ぶべきことじゃないですか?」

「納得いかん」

「してくださいい」

「たったあれだけの短期間座っていただけで、体力が減っている。なんらかの原因があるはず・・・・・・そうでなければあんなにも・・・・・・」

「・・・無いなら無いでいいじゃんか」

「むう」

 晦は渋々聴診器を離した。

「東は何ともないのか?」

「特に異常はないですよ。体調も悪い所はないけど・・・」

「けど・・・・・・?」

「疲れてもないのに足下がふらつくんです」

「フム、・・・・・・生きる上での最小限の力しか残っていない、というわけか」

 晦は急にまじめくさった口調で、独り言のように呟いた。

「え? 今何と?」

「分りやすくいえば、『生きる』という行為以外は何もできない、ということだ。運動はしばらくできないだろう。その身体で運動すると、立てなくなるぞ」

 晦は真顔で淡々と告げる。

「な、何ですかそれ? 何でそうなるんですか」

「何らかの原因でほとんどの力が抜け落ちていることは間違いない。ただ、それを把握していない頭と体がいつも通りの動きをしようとして、体全体で混乱しているんだ。ふらついているのはそのためだと思う。・・・・・・似たような病気がある、その症状によく似ているんだ」

「似たような病気・・・・・・ですか」

「成長ホルモンの過剰な働きによって、体内で起こる新陳代謝が異常に活発化する病気だ。症状は全くないから最初は気付かないのだが、しばらくすると、すぐに疲れが出たり今の東のようになる。新陳代謝が必要でない時でも『活発』に働いているせいで、すぐに眠くなり、悪化すると、まあこれは最悪のケースだが、一生起きなくなってしまうこともありうる」

「俺が、その病気にかかっている・・・?」

「それはない。あの病気は徐々に悪化していくやつだ、今のお前のような突発的な物ではない。ただ、症状がよく似ている」

「似ている、だけですよね・・・・・・?」

 幸助が青ざめながら恐る恐る尋ねると、晦はフッと微笑した。

「だと良いんだがな。今のところ何とも言えない。それが病気なのか体質なのか、もしくは心霊現象で起こりうる超自然現象なのか・・・・・・まてよ、お前の回りは全て意識を抜き取られていたな」

「気絶をそう言うなら・・・そうですけど」

「いや、もしそうだとして、症状は・・・・・・と同じになるな」

 晦はぶつぶつ言いながらいきなり立ち上がった。

「ちょっと先生!」

「待ってろ、心当たりがある。・・・・・・ふっふっふっふ、おもしろくなってきたぞ」

 不敵な笑みと幸助を残し、晦は保健室から出て行ってしまった。

「ウミさん頼むから、一人合点しないでくれ」

 一人取り残された幸助は、状況が今一把握できず混乱するばかり。

 混乱ばっかりでも何かしゃくになってきた幸助は、少し頭を整理してみることにした。

 話からすると・・・・・・病気ではない、らしい。そこはひとまず安心できる。『・・・超自然現象な・・・・・・』の辺りで合点する所を見ると、これはどうやらその辺りの症状ではないだろうか。だがこういう出来事が、はたして過去にあったのだろうか。

 気がかりになるのはもう一つある。超自然現象はあるはずがない、とされているが、心の何処かでそれを肯定しているようなのだ。そう思っても不思議と違和感がない。それは『超』でも何でもなく、ごく当たり前の現象に思えた。こんな事を言っていて、もちろんいつでも起こっているわけではない。これが初めてだが、こうなることをすでに予想していたような気がする。

変な話だが、実際のそうなのだから仕方ない。

「・・・・・・『我を呼べ』か。いったい何だったんだろうな」

 幸助は晦に言っていないことがあった。不思議な声が聞こえ、その間からだが動かなかったこと。晦が来ると、悔しそうにその声が消えていったこと。『私が消してやる』、空耳ではない。はっきりと聞こえた。あの中性的な低い声は、今でもはっきりと脳裏に焼き付いている。言葉からでも伝わってくる憎悪と殺意があった。

「たぶんあれだな『望みを叶えてやるぞ、さあ我を呼べ』ってやつか。・・・・・・魔法の何とやらでもあるまいし、ま、そんなことはないか」

 苦笑いがもれる。

「・・・・・・ふぁあ」

と同時にあくびも出た

しばらくの間じっとしていたので、どうやら眠くなってきたようだ。

さっきあった出来事、できれば夢であってほしい・・・と思う。これが、平凡な生活に幕を閉じそうな気がして、怖い。次に目が覚める時も、いつも通りのものであってほしい。

そう思いながら保健室の清潔なベッドの上に横たわる。

自然とまぶたが落ち、幸助は眠りに落ちた。

いつものままであってほしい、そう思いながら。



…………ソウ……思イナガラ・・・ダト?

我ガイル限リ、イツモノママデハイラレナイゾ・・・・・・








 夢を見た。



夢の中はどれも無音だった。

夢の中の自分は、何も感じなかった。

「見る」だけの夢だったと思う。

場面が全て違う。 

共通点が何もないように見えたその夢は、しかしたった一つの共通点があった。

その夢に、必ず一人の少女が出てくる。

むしろ、出てくる人間は一人だけ、というべきか。

表情はわからず、年代もバラバラだが、これが何度も何度も場面かわってゆく夢の中でたった一つ同じだったもの。

最初は一面の花畑だった。

不思議な感覚だった。

何も感じないのに、暑さも、風も、痛さも、何も感じないのに、妙な懐かしさがあって、親近感があって、でも手も届かない。

自分から何かを伝えることもできないのに。

色は白黒じゃなくて、全部繊細なはっきりとした色。

場面が切り替わる、ほんの一瞬。

少女がこちらを向いて笑っているような気がして・・・。

それでも変わってゆく。

何の脈絡もなく、ただ切り替わってゆく。

少女達の顔を見ようとする前に、

「七つの場面」が、何度も何度も切り替わって。

繰り返して。

これは、もう終わらない夢のようで・・・・・・。

もう俺は、目が覚めることが無いのかもしれない・・・。

そう思って・・・・・・。

とても悲しくなって。

だから空を見上げて・・・。

・・・でも何もなくて。

途方に暮れる俺は。

何もできない俺は。

ただ立ちつくしている俺は。

夢の中で。

何度も切り替わる夢の中で。

永遠とも思える夢の中で。

唯一変わらない青い空の下で。

流れてゆく雲も無いこの空の下で。

何も考えられずに。

考えることができずに。

この悲しさは。

この苦しみは。

自分の心に、

ただたまってゆくだけで。

動くこともできずに。

身動き一つできずに。

懐かしさも。

親近感も。

味あわせてくれないまま。

ただ時がすぎて。

やり場のない思いは。

音のないこの世界で。

何も感じないこの世界で。


静かに。


ただひっそりと。


泣いている。


俺は。

何もできない俺は。


俺は・・・・・・。








「・・・・・・」

 涙もぬぐおうとせずに、幸助はベッドから体を起こし、ただ、黙っていた。

 涙が流れている。

 熱いものがほほをつたっている。

 起きた時には、すでに涙を流していた。

 別に何が悲しいわけでもない、痛いわけでも、苦しいわけでもない。

だけど、涙がほほをつたっていて、胸が熱かった。

「・・・・・・」

 何も言えない。

 幸助はベッドの上でうつむいたまま、ただ涙が止まるのを待った。



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