多感だった頃。流動していた頃。まだまだ先は長くて未定だと思っていた頃。
過ぎ去った季節の中で、私は何を思い、何を考えて生きてきたのだろう。
それはきっと、もう答えの失われてしまった問い掛け。
時と共に価値観は変わって、だから、私はもうあのときの事を、あのとき感じたことそのままに感じ取ることは出来ないかもしれない。
だけど、それを忘れることは決してないだろう。
†
あれから、ずいぶん時が経ったように感じる。
それなのに、私はそれがうまく実感できないでいる。
あの季節から一足飛びに時間が飛んでいってしまったのではないか。そう思うときもある。
思えば、翔子と環と誠司と小夜ちゃんと浅宮さんと、つどって過ごしていたあの頃が、今までの人生の中で一番充実していたときなのではないだろうか。
空はどこまでも青い。
太陽の光はじりじりと地面を焼く。
濃密な夏の空気の中、それでも私は生きていた。
†
その日、駅前のベンチに彼はいた。
夏になるというのに、緑色のコートを身に着けている。
肌は白い。
そしてなにより、その顔は――
「誠司!?」
私はその少年を見て、とっさにそう口走った。
少し後悔する。誠司はもうどこにもいないというのに。
少年は目を大きく開いて驚きの表情を浮かべていた。
無理もない。いきなり見知らぬ人物に知らない名前で呼ばれたら私だって困惑する。
少年はしばしあたりを見回して、やがて、自分に対しての言葉だったことに気づいたらしい。
「あの、僕は誠司さんではありませんけど」
わずかに、違和感。
だけど、このときの私は、その違和感の正体に気づかなかった。
「ごめんなさい。私の知っている人に似ていたものだから、つい……」
気まずくなって、つい、私は目をそらす。
だから、私は、このとき少年が何か思わしげに目を細めていたことに気づかなかった。
「ところで、キミはどうしてこんなところにいるのかしら?」
「待ち合わせをしているんです。もう約束の時間を三十分ほど過ぎていますが」
少年は駅前広場の時計を見上げて、ぽつり、ため息混じりに呟く。
それはすっぽかされたのではないだろうか、と思いつつも、健気に待ちつづける少年にそれを言うのはさすがにためらわれた。
「ねえ、キミさえよかったら、ちょっと喫茶店でお茶でもしない?」
気づけば、私は誠司似の少年にそう声をかけていた。
「……それ、ナンパですか?」
「どう取るかはキミの自由だけど」
少年は目を細め、おとがいに手を添えて、しばし考え込んでいたようだが、やがて、身を起こすと、
「そう、ですね。この様子だともうしばらく待たされそうですし、少しの間であれば」
†
そうして、私は少年と一緒に喫茶店の中にいた。
少年と向かい合わせに席を取った。
そうやって向かい合わせ、見れば見るほど彼は誠司に良く似ていた。
記憶に残る、誠司の肌も白かった。ここまでではなかったような気もするけど。
違いを挙げるのなら、誠司はこの少年みたいに眼鏡をかけていたわけではなかったし、少年は誠司に比べれば色々な部分の色素が薄かった。
そこまで考えたところで私は頭を軽く振って浮かんだ考えを振り払う。
なにかにつけて彼と誠司とを重ねるのは、この少年にも誠司にも失礼なような気がして。
珈琲をすする。
昔はブラックなんて飲めるはずないと思っていたのだが、やはり人は変わるものらしい。
逆に向かい合って座っている少年は珈琲に砂糖とミルクを足していた。
ブラックが飲めなければ大人じゃない、なんて言うつもりはさらさらないのだけれど、何故かその様子が子供っぽく感じられて、自然、私は笑みを浮かべてその様子を見ていた。
「あの、無理にとは言わないけれど……。その眼鏡、外してみてくれるかしら?」
彼は「いいですよ」と二つ返事で快諾すると、かけている眼鏡を外した。その素顔を私は真正面から見る。
透き通るような白い肌。その顔の輪郭。その目元。偶然にしては出来すぎているほど、彼は誠司に瓜二つだった。
だけど、あたりまえといえばあたりまえなのだけれど、彼は、私の記憶に残る誠司よりも若干ながら成長していて、それが、なんだか物悲しい。
「本当に、見れば見るほど私の知っている人にそっくりね」
それは、独り言に近かったのだけれど。
「らしいですね」
「え?」
呟きに近いその声はひどく小さくて、私はそれを聞き逃した。
「いえ、なんでもありませんよ」
ごまかすように、困ったように笑うその仕種まで、どこか誠司に似ていて――それは、私の錯覚だとは思うのだけれど――本当に、他人という気がしなかった。
だから……なのだろう。
「ねえ、少し長くなるかもしれないけど、聞いてくれるかしら?」
私が『それ』を目の前にいる少年に語ろうと思ったのは。
「それは一人の少女の視点から語られる話。主人公にもヒロインにもなれなかった脇役少女の視点から語られる、刹那の季節の話……」
†
「……これで、話はおしまい」
一通り語り終わって私は一息つく。
おかわりしたはずの珈琲は、すでにその熱を失っていた。
花見をしたこと。お泊まり会。夏の日。海の話。浅宮さんと誠司のこと。いろいろ。
思えば、何もかもがなつかしい。
だけど、今考えてみれば、実につまらない話だったのではないか、と思う。
いや、私にとってみればつまらない話であるはずはないのだが、何も知らない、関係もないだろうこの少年にとっては、迷惑極まりなかったのではないだろうか。
「ごめんなさいね、自分のことばっかりで。面白くなかったでしょう?」
だから、私は自嘲気味に謝罪した。
だというのに、彼は軽くかぶりを振って、
「いえ、そんなことはありません。……すごく、興味深い話でした」
「それから……」
「はい?」
「少しの間だけって言われてたけど、思い出話しているうちに結構時間たっちゃったみたいだけど、大丈夫かしら?」
「………………」
「…………」
「しまった、忘れてた……」
少年は額に手を当てて項垂れた。
「それじゃあ、すみませんがこのへんで失礼させてもらいます」
彼は私の分の支払伝票もいっしょに取った。
「あ、私の分は私が払うわよ」
彼はウインクして、
「興味深い話を聞かせてくれたお礼です」
立ち去り際、彼は一度だけ振り返った。
「どうして、その、要芽とかいう少女は『いずれ学校に通いつづけることは出来なくなっていただろう』と言っていたのだと思います?」
彼は、ちょっとだけ意地の悪い笑顔を浮かべる。
その笑みは誠司ではなく、なぜか彼女を思わせた。
「そのとき、彼女は妊娠していたんです」
「あの……!」
私は、立ち去りかけた彼を呼び止めた。
少年は、振り返ることなく、足を止めた。
「キミの名前は、なんていうの?」
「その前に、先ほどの昔話から察してですけど、あなたの名前は『若菜』というのですか?」
少年から答えではなく質問が返ってくる。
「ええ。若いという字と菜っ葉の菜で、若菜よ」
「若菜、菜、菜……なるほど。そういうこと、か」
私に聞こえないくらい小さく呟いて、彼は軽く頷くと、
「陽司、です。太陽の陽と誠司さんと同じ司の文字で、陽司」
それきり、二度と振り返ることなく陽司と名乗った少年は去っていった。
追いかけはしなかった。追いかけようとも思わなかった。
私はため息をつく。
本当に、私は、どこまでも察しが悪いらしい。
そう。わかろうとすれば、すぐにわかることのはずだった。
あのとき彼女が浮かべていた、あの、ひどく、穏やかな微笑の理由――
あのとき、美由紀さんと一緒に神谷総合病院から出てきたのは何故か――
翔子があそこまで強く二人の仲を護ろうとしたその理由――
そして――彼女の『覚悟』
先ほど語った話の中にはなかったが、一時期、学校内で彼女が具合悪そうにしていたり、そのたびに翔子がそばについてなにやら話し合っていたりしていたが、それも、もしかすると、そういうことだったのかもしれない。
疑問が解け、新たな疑問が発生し、すぐに氷解する。
陽司という少年の言ったことが事実で、浅宮さんがあの時妊娠していたというのなら、その後に生まれたであろう子供は、今は16、7くらいになっているはずだ。
そう。例えるなら、あの、陽司という少年くらいの年に………………。
しばらく経って、私はようやく席を立ち、外へと出た。
あの少年は、待ち人と出逢うことはできたのだろうか。
もはや興味はなかった。
なぜなら、それはすでに終わってしまったことなのだから。
私は、駅とは逆方向に歩みを進めた。
じりじりと、太陽の光が地面を焦がす。
季節は巡る。
だが、同じ季節は二度とやってこない。
過ぎ去った季節は風化して、その記憶は徐々に薄れてしまうのかもしれない。
だけど、私はきっと忘れることは無いだろう。
君が生きて、君たちが笑っていた。
確かに輝いていた、あの、かけがえのない、刹那の季節のことを。
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