そして、彼女は、言った。
 
 出逢わなければ、想わなければ、こんな痛みを受けることはなかったかもしれない。
 疼痛。想い痛み。逢いたいのにもう逢えなくて、エイエンになってゆくのがただ物悲しい。
 君と逢わなければ、こんなにつらい思いをすることも、悲しい思いをすることもなかった。
 
 でも、出逢わなかったら見えなかったものがある。
 出逢わなければ、得られなかったものがある。
 君と逢わなければ、あんなにもあたたかい何かを感じることも、こんな喜びを感じることもなかった。
 
 それは、
 笑いたくなるほど悲しくて。
 泣きたくなるほど嬉しくて。
 
 だけど――
 だから――
 
 君と、出逢えてよかったと、思うんだよ。
 君を好きになれてよかったと、思うんだよ。
 君と一緒に歩けて、本当に良かったと、そう思うんだよ。
 
 

 
 誠司がいなくなっていくらか日にちが過ぎ、一年最後の月に入った。
 その机には花と写真立てが置いてあり、その事実をいやがおうにも認識させようとする。
 教室内の空気は何処か暗かった。
 あまり見ていたくなくて、私はそれから目をそらした。
 
 机に突っ伏す。
 きっと、前兆はあった。私は気づかなかっただけで。
 気づけたかもしれなかった。
 いや、気づかなければならなかった、のかもしれない。
 最期の最期までごく普通の日常の中にあることを望んだ誠司。
 本当に終わりに近くなるまで、そんなそぶりをまったく見せようとはしなかった。
 だけど、ほころびはあったんじゃないだろうか?
 身近にいたからこそ、それに気づくことは出来たんじゃないだろうか?
 身近だったからという油断が、それを見落とさせたのだろうか?
 疑問はつのる。
 もし気づいたとしても、私に出来ることなんてほとんどなかったのかもしれないけれど。
 
 私は顔を起こして彼女を見る。
 暗い空気なんかどこ吹く風で、誠司がいなくなってもどこも変っていない。と、一年前の私だったら評したと思う。
 単純に見た感じでは、平静を保っている。
 だけど、うまく言葉に表せないのだけれど、なんというか、彼女の持つ空気が違うのだ。
 それは、最後に誠司とともにあったあの姿が脳裏に焼き付いているからなのか。
 いや、それだけではないだろう。
 何よりも。
 誠司と『お別れ』した次の日、彼女は長かった黒髪を、何の躊躇もなくだと思う。ばっさりと、短くしてしまっていたのだから。
 もしかしたら気のせいだったのかもしれないけれど、その日の彼女は、目もわずかながら赤くて、目元も少しだけ腫れていたように思う。
 
 二人寄り添っていた姿を、共に過ごした日々を、私は今でも、つぶさに思い出すことが出来る。
 
 それはきっととても輝いていて。
 今までに見たことのあるどんな美術品も及ばない、美しさと儚さの調和を奏でている、と私は思うのだ。
 きっと、これから先、どんな芸術品を見たとしても、あれ以上に私の心を揺さぶることはないだろう。
 
 

 
 その電話がかかってきたのは、冬休みに入ってすぐのことだった。
「はい、もしもし。葉籐ですが」
『申し訳ありませんが、若菜はいらっしゃいますでしょうか?』
「え? 浅宮さん? あ、若菜は私です」
『そうか。それで若菜、今から時間はあるか?』
「え、ええ。特に問題はありませんけど」
『そうか。それじゃあ――』
 
 
 
 イルミネーションに彩られた街中。
 心なしか、街を歩くカップルの比率がいつもとは段違いに多い。
「……そっか。今日はクリスマスなんだ」
 呟く。
 そんなことも忘れていた。
 あるいは、考えることにもいたらなかったのか。
 
 指定された場所で、浅宮さんはすでに待っていた。
 その姿を認めるとともに、私は小走りに駆け寄る。
「ごめんなさい。待ちましたか?」
「いや、今ついたばかりだよ」
 問題ないとでも言うかのように、浅宮さんは軽く手を振ってみせた。
 
「それじゃ、ちょっと歩こうか」
 私の息が整うまで待って、浅宮さんはそう促した。
 歩き出す浅宮さんを、私はすぐに追った。
 
「変わらないな」
 浅宮さんは小さく呟く。
「………………」
 私は答えない。
 何が言いたいのか、わからないわけではないけれど、それゆえに、今は何も言えなかった。
 身近にあった、かけがえのないもの。早坂誠司という、ふたつとない大事な存在。
 欠けてしまったのに、世の中は、何事も無かったかのように動いている。
 それは当然のことなのだとわかってはいる。頭の中で理解してはいる。
 何の変哲もない中学生一人いなくなっただけで世の中がパニックになられても困る。
 そんなことはわかっているのだけれど。
 だけど。
 本当に何も変わらなくて、悔しいと思う自分がいる。
 誠司はいないのに。もうどこにもいないのに。
 街中を闊歩するカップルは、実に幸せそうにしている。
 別に彼らが悪いわけじゃないって、わかってはいるけど。
 それでも、彼らが幸せそうにしていればしているほど、それに比例するかのように暗鬱な気持ちが広がってゆく。
 
「……若菜」
 浅宮さんの呼びかけに、私はハッと我に帰る。
 どうやら、ちょっとネガティブ思考に入り込んでいたようだ。
「悪かったね。こんな日に呼んでしまって」
 おそらく先ほどまでの私は暗い顔をしていたのだろう。
 浅宮さんは申し訳なさそうにしていた。
 そういえば、今日はクリスマスだったわけで。
 街中はカップルが堂々と闊歩しまくっているわけで。
 もしかしたら、浅宮さんは先ほどの私の態度から何かを勘違いしてしまったのではないだろうか。
「ううん、気にしなくても大丈夫ですよ。ほら、どうせ私、彼氏とかいませんでしたし、ひまでしたし」
 言っててむなしくなった。
 弁解のためとはいえ、何を浅宮さんに申し上げているのだろうか私。
 軽く深呼吸する。
 そうだ。
 誠司がいなくなって悲しいのは私だけじゃない。
 彼女は、もしかしたら私以上に嘆き悲しんでいるのかもしれない。
 そんなことを彼女はちっとも顔に出してはくれないけれど。
 
 何かを思い出した、とでも言うかのように浅宮さんは足を止めて私を見た。
「若菜って、誠司の姉貴分だったんだよな?」
 誠司。
 胸が、ずきりと痛む。
 それを押さえつけ、つとめて何事もなかったかのように言う。
「ええ。そうですけど」
「翔子にはすでに言った。誠司がいたら、本人に言ったんだけど、いないから、代わりに若菜に言っておくよ」
「何を……ですか?」
 なにか、あまりよくない予感がした。
 こういうときにかぎって予感があたるのだから、世の中っていうのは結構理不尽だと思う。
 
「この街を、去ることになったんだ」
 遠い眼差しで、言う。
「実家に呼ばれてね。好き勝手やっていられなくなった」
 はあ、と嘆息して、浅宮さんは腰に手を当てた。
「どちらにせよ、そのうちに学校には通っていられなくなったんだろうけど」
 少しだけ無言の中、二人並んで目的もなく歩く。
「美由紀さんはどうしているんです?」
「大きな準備はすでに済んでいるから、細かい準備を。それも、もうほとんど終わっているんだけど」
「……もう、この街に戻ってくるつもりはないんですか?」
 わずかに、間があく。
「一番の理由が、喪われてしまったからね」
「そう……ですか」
 悲しむべきなのか、ほっとするべきなのか、私は判断に戸惑う。
 それは、この人の中で誠司の存在が強く強く刻み込まれていることの証でもあったから。
「いつ、出立するんですか?」
「明日にでも、かな」
 あまりにも急すぎる。
 誠司といい、この人といい、どうしてもっと早く言ってくれないのだ。
「もっと早く言ってくれれば、お別れパーティーとか出来たと思いますのに」
「そういうの、ガラじゃなくてね」
 そう言って浅宮さんは苦笑する。
「だから、若菜には土壇場で言えと翔子にアドバイスされた」
 ……翔子のやつめ。
 ここにいない友人に、私は毒づいてみた。
 
 

 
 ちらほらと、白いものが舞い落ちて、私は空を見上げた。
 すぐに、それが雪であるとわかる。
 
 街並みは、もっと子供の頃、意味もなくはしゃぎまわっていたあの頃のままではなくて。
 あの頃空き地だったところには、すでに店が建っていて。
 あの頃ケーキ屋だったところは、今ではファミレスになっていて。
 何もかもが、昔のままではいられなくて。
 何もかもが、変わらずにはいられなくて。
 それはきっと、気持ちも同じで。
 彼女はまだまだ若くて。だから、これから先、きっと誠司とは別に、いい人を見つけることだろうと思うけど。
 そう考えることは切なくて。
 
 そんな、私の思考を察していたのかはわからないけれど。
 彼女は私を見て、
「これからもずっと誠司を想いつづけていられるか、それはわからないけど、今ここにいる私は、確かに誠司を愛しているよ」
 ――それから、ね。
 並んでいた状態から速度をあげる。
「私は誠司と誓ったから。だから、誠司はいなくなってしまったけれど、それでも私は歩いていくよ」
 浅宮さんは、すでに私の数歩先にいた。
 彼女はその場からくるりと振り返って私のほうを向きながら、大きく手を広げて見せた。
 たった数歩。だけど、それはきっと、とてもとても大きな差。
 
 
 
「――この、刹那の夢のような季節が、かすんで見えなくなる場所までね」
 
 
 
 ああ――
 私は泣きそうになる。
 彼女はきっと忘れない。
 その上で、彼女は未来へ歩いていく。
 そんな彼女はとても輝いていて。
 私は、そんな彼女が好きだった。
 
 それは、半ば無意識の動作だったのではないか、と思う。
 私は自然に彼女に近づく。
 そして私は彼女のあごに手を添えて、くいっと持ち上げると――
「――――」
「――――!?」
 眼前で震える彼女の睫毛。驚きにゆれる瞳。それを目にしただけで私は満足だった。
 身体を離す。二つの唇をつなぐ銀糸は薄く伸びて、やがて切れた。
 自分の唇を軽くなめる。彼女のぬくもりが、まだ残っている気がした。
「浅宮さんにとっては違うでしょうが、私のファーストキスです」
「ファーストキスで舌まで入れるのかお前は」
 目元にわずかながら涙を浮かべ、呆れた表情をする浅宮さんがなんかひどく新鮮だった。
 
 
 
「さようなら」
 最後に、一度だけ。
 私は彼女を『浅宮さん』とではなく、名前で呼んだ。
「……要芽さん」
「ああ。さよなら、若菜」
 
 それが、私と、浅宮要芽という名の少女との別れだった。
 そしてそれ以降、私は彼女に会っていない。
 
 

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