距離とか、立ち位置とか、そういったことはまったく関係ない――ことはないのだろうけれど。
 でも、近いのに遠いことは確実にある。少なくとも、私はそう思っている。
 
 

 
「ねえ若菜、時間に余裕ある?」
 その日の放課後、帰り支度を整えていた私の前に翔子が不意をつくように顔を出す。
 驚きはしたものの、なるべくそれを表に出さずに済んだ。
「一応、大丈夫だけど。何? 何か用?」
「うん……。ま、ちょっと、ね」
 翔子にしてはやけに歯切れが悪い。
「そ……だね。教室だと何だから、屋上にでも行こっか」
 翔子は軽くあたりを見回して、まだ何人か生徒が残っているのを確認すると、耳打ちするようにそう言ってきた。
 
 思えば、この時点で気づいて然るべきだったのだろうけれど。
 どうしようもなくバカで、どこまでも鈍い私は、最後の最後、答えの発表まで何も気づけなかったのだ。
 
 
 
 そして私たちは学校の屋上へとやってきた。
 少々肌寒さが目立ち始めている。秋がますます深くなってきたからだろうか。
 日が落ちるのもずいぶんと早くなってきたように思う。
 この分なら、それほど経たないうちに夕暮れを迎えるだろう。
 当然かもしれないが、その場に他の生徒は一人もいなかった。
 翔子はフェンスに背を預け、私と向かい合う。
 風は、やはり冷たかった。
「う〜ん……。まず、どこから始めればいいのかちょっと迷うところではあるけれど……」
 そう言って、翔子は眉をひそめて天を仰いだ。
 それから少しして、翔子は再び私の顔を見る。
「誠司、さ。一時期、長く入院してたの、覚えてる?」
「うん。覚えてるよ」
 そう。誠司は小さい頃からよく病院に通っていたし、入院していたこともあった。
 最近は、そんな話を聞かないから、良くなったのだと思っていたのだけれど。
 翔子は「そう」と呟いて一度言葉が止まる。
 一呼吸分の間があいて、翔子は再び口を開いた。
「あとね、ちょっと話変わるけど、要芽ってさ、ああ見えて、結構奥手なところがあってね。ただ、走り出すと一直線で赤信号も吹っ飛ばす勢いだけど」
「は?」
 いきなり予想もしなかった方向に話が飛んでいた。
「だから、さ。あの二人がお付き合いすることになんて初めは予想できなかったところあったんだよね」
「え? あ、うん」
 よくわからないまま、私は相槌を打つ。
「さっきも言ったけど、要芽って結構奥手なところあってさ。だから、普通だったらゆっくり関係を積み上げていって、動くのはもう少し後のことになるはずだったんだよね。要芽の性質からすれば、さぁ」
 ――そんな要芽が、どうして今回、すぐに行動に移したのだと思う?
 何気なく放たれたように見える問いかけ。
 その答えがわかるはずもなく、私は首を横に振る。
「本当に、何も、誠司のこととか、要芽のこととか、これっぽっちも思いつくことはないの?」
 先ほどと同じように、私は首を横に振った。
「本当に、知らないんだ……」
 どこか、落胆したように。どこか、失望したように。だけど仕方ないのか、とでも言うかのように。翔子は私を見ていた。
 
 
「誠司ね……、もう、長くないよ」
 
 
 その言葉が放たれた当初は、まだ、その意味を理解できずにいた。
 数十秒が経過してようやく「……え?」という声をもらすことが出来た程度。
 
「あ、あは、あは、は……」
 乾いた笑い。
 そんなことは、さすがに自覚できていた。
「や、やだなぁ。それ、洒落になってない。たちが悪いよ」
 気づけ。
 いや、気づいているはずだ葉籐若菜。
 翔子は、冗談でそんな目をしない。
「本当……なの?」
 非情にも、翔子は頷く。
 冗談の入る余地など欠片も許さない。そんな顔だった。
「でも、なんで……、なんで、翔子がそんなこと知ってるの!?」
「神谷総合病院。あたしんとこの病院だからね。誠司が入院してきたらすぐにわかるし、それがいつまでも続くようじゃ、さすがにあたしだって何かあるんじゃないかって思うよ。もっとも、さすがに病院の院長兼経営者の娘、なんて程度の立場じゃ、誠司がどんな病でどんな状態にあるか、なんて本当はわかるはずないんだけどね」
 でもね、やっぱり他の人よりはそういうことが知りえる立場にいることは間違いないから。翔子は自嘲気味に言った。
「知ったってさ、何が出来るってわけでもないのに。バカだね。あたしも」
 それはそうだ。
 病院の経営者の娘だからといって無条件で何もかもを知ることが出来たなんて都合のいいことはないだろう。
 ただ、他の人より誠司の病状について知りえる枠が広かったのは事実だろうけれど。
 だけど、だから、翔子は何らかの手段をもってして、そして、知ってしまったのだろう。
 誠司のことと、それに対して何もしてやれない自分に。
 
「正確には、いつまでもつかわからない。一年後かもしれないし、もうすぐ終わってしまうかもしれない。でも、これだけは確実」
 くるり、と背を向けて、翔子は空を仰いだ。
 どこまでも広く、深く、決して手の届かない場所。
 
「……誠司は、大人になれない」
 
 そのコトバが、ひどく、重く、のしかかる。
 この時なぜか、私はシャボン玉を夢想した。
 屋根まで届かず、生まれてまもなく壊れて消えるシャボン玉。
 
「それでも、入院して延命処置を受けていれば、もう少しくらいは長らえたのかもしれないけど。でも、誠司は日常に生きることを選んだ。ちょっと強い薬で病状を抑えたりして。結果的に、それで残り時間が短くなっても」
 くるり、と私のほうを向き、私に歩み寄ってくる。
「だけどさ、本当。すごいよねぇ、誠司は。自分が『はかないいのち』だってコト、まったく思わせすらさせなかったんだから」
 若菜だって気づいてなかったんでしょ? と確認するように問い掛ける。
 事実だから、私はただ頷くことしか出来なかった。
「でも、要芽は気づいた」
 真っ直ぐ射抜く、翔子の視線。
 責められているわけではないのだろうが、それでも責められているように感じてしまうのは、身近にいたにもかかわらず、小さな違和にさえ気づけなかった自分に対する自責の念ゆえだろうか。
「要芽はどこかおかしいって気づいた。どうおかしいのかははっきりとはわからなかったみたいだけど。でも、気づいた。誠司が隠し切れなかった小さなほころびに
 本当、恋する乙女は素敵に無敵ってなもんだねぇ。そう言って翔子は両手を広げる。
「あたしは何度か言ったよ。誠司は長くないよ、って。考え直した方がいいんじゃないの? って。でもさ、そしたら、要芽、本当にいい笑顔してこう言うんだもんなぁ」
 翔子は彼女の口調を真似て、
「『それでも、誠司はきっと、私の六十億分の一だから』って。わかる? 世界人口約六十億の中のたったひとりなんだってさ」
 翔子はつとめて明るく振舞っているように見えた。
「だけどさ、本当、要芽があそこまで突っ走るとは正直さすがに驚いたねぇ」
 けらけらと笑う。
 だけど、それが、どこか実のない笑いだと、さすがの私でも気づいていた。
「つらくないわけ……ないのに、それでも二人は、不幸だなんて思ってなかった。限られた時間を、埋めるように過ごそうとしてた……!」
 笑いが止まる。偽りの笑みが崩れる。
 かつて見た無表情。でもそれは、決壊寸前のダムのようにも思えた。
「だから……っ、二人がそういうふうに過ごそうとしているのなら、あたしだって泣くもんかって、そう思っ、て……!」
 言葉に出来たのはそこまでだった。
 私の胸の中で、翔子は嗚咽を漏らす。
 ああ。つまりはそういうことだったのだ。
 翔子が変貌したように見えたのは、こうなること、すなわち、二人を見るたびにこみ上げてくるものを押し殺していた結果だったのだ。
 そうしなければ、こんなふうに、あふれだす涙をとめることが出来なくなってしまうから。
「どうしてかなぁ、どうしてなんだろう? あたしは要芽も誠司も好きで、二人がくっついて、それで幸せになってくれるのなら、こんなに嬉しいことはないって思ってたのに、どうして……どうして、こんな結末しか待ってないのかなぁ? どうして? どうして!?」
 とめどなくこぼれる言葉と涙。
 私はただ、翔子を抱きしめて背中をさすってやることしか出来なかった。
「……ごめんね」
 不意に、かけられた謝罪の言葉。
 その謝罪の意味がわからず、一瞬戸惑う。
「自分勝手だなって自分でも思うよ。こんな、どうにもならないようなこと、抱えて込んでいるのが辛くて、せめて、若菜にも共有してもらうことで重荷を少なくしようとしたんだから。……軽蔑されても、しかたないよね」
「そんなことは、ないよ」
 確かに、それは、あまりにも衝撃的な事実で、信じたくもないようなことだけれど。
 だけど、知らない方が良かったとは一度も思わなかった。
 むしろ、誠司を喪った後になってようやくそれを知ることになったとき、自分のバカさ加減に打ちのめされたことだろうから。
 
 

 
「まったく、好き勝手なこと、言ってくれるな」
 翔子の嗚咽がようやく収まってきたとき、不意に、屋上の出入り口から声が聞こえてきた。
「え!?」
 そこには彼女の姿があった。
 私は彼女を見て驚きの声を上げる。
 彼女は目を細めて私たちを見ていた。その表情はどこか憮然としている。
 翔子は、おそらく気づいていたのだと思う。彼女がそこにいることにまったく驚いている様子はなかった。
「でも、まあ、不幸だなんて思っていないというところは、正しいけど」
 彼女の黒髪が――最近は髪を下ろすことが多くなった――風に揺られてさらりとそよぐ。
 彼女はゆっくりとこちらに歩み寄ってきた。
 ひどく、優しい笑顔。
 おそらく彼女は嘘は言っていないのだろう。だけど、
「つらくは……ないんですか?」
「つらくないなんて、そんなことはないよ」
 あまりにもあっさりと言ってのける。
 それはとても自然体で。だから、なんて発したのか理解が少し遅れた。
「迷ったこともある。誠司が触れられない存在になってしまう。それはきっと、すごくつらいことで。でも、だからといっていつか来るその日を恐れて想いをおしこめたら、いつか、それを後悔する日がくるかもしれない。ならば動いた方がいい。私はそう思ったんだ。動いて後悔することは、動かずに後悔することより案外少なかったりするものだから」
 彼女は、軽く空を仰いで、
「それに、さ。今、結構人生を謳歌しているつもりなのだが、ね」
「ごめんね、要芽。要芽たちがそう思っているのはなんとなくわかるけど、でも、でも……」
 また、翔子の目にじわりと涙が浮かぶ。
 それを見てだろう。彼女は少々慌て気味に手を振る。
「おいおい、翔子……」
「ううぅ。要芽ぇ……」
「あぁもう。わかってるから泣くなってば」
 今度は彼女の胸でしゃくりあげた翔子を、彼女はやや困惑気味に、しかし優しくなだめる。
 そんな二人を見ていると、やっぱり仲がいいんだなぁと思ってしまうわけで。
 
 ただ、普通、こういう展開では立場が逆なんじゃないか、と思ったことも否めないのだけれど。
 
「そうだ! あの――」
 彼女からも誠司に延命処置を受けるように説得したらどうか。私はそうまくしたてる。
 だが、彼女から帰ってきたのは睨むような鋭い視線。
 睨むというのは言い過ぎかもしれないが、そんな印象を受ける眼差しであったことは確かだった。
「言ってどうなるとも思えないな。誠司がみんなの前で必死に病状の発露を抑えてきたのは、身近な誰かにそういわれるのが嫌だったからというのもあると思うし。それに、誠司はただ無為に長らえるより“生きる”ことを望んだのだから、それが選択だから、私には、何も、言うことはないよ」
「だから、誠司に少しでも長く生きてもらうために――」
 彼女はひとつため息をつく。
「若菜が言いたいこともわからなくもないけれどさ。でも、違うんだよ。“死んでいないこと”と“生きていること”ってのは、さ」
 わからないかな? と彼女は苦笑する。
「私は、最期の瞬間まで誠司に“生きて”いてほしい。だから止めない。だから、私は誠司のそばで、おしまいの日がくるまで支えつづける」
 それが伴侶ってものだと思わないかな? 彼女はそう言って、やっぱりその顔は優しげだった。
 
 そんな彼女を見て、私は、かなわないなぁと思いしらされた。
 強くて、気丈。
 なるほど。実に、まったく、彼女はそんな言葉がぴったりな女性(ひと)だった。
 
 

 
 その日執り行われたそれは、法的には何の意味ももたない、身近な友人たちだけが集まっただけの、ちっぽけな結婚式。
 式場は彼女の家で、賓客は私や翔子や環、小夜ちゃんなど、ほんの数人。
 それはささやかな、本当にささやかな儀式だったけれど。
 だけど、きっと、それで充分だった。
 彼女が身にまとっている薄青色のウェディングドレスは翔子の手作りなのだそうだ。
 というか、これなら翔子は服飾で充分生計を立てていけるんじゃなかろうかと思ったが、本人はあくまでも趣味の領域だからと言い張っていた。
 
 彼女は笑っていた。
 誠司も笑っていた。
 作った笑顔なんかでは、決してなかった。
 だから私も、私たちも、笑顔で送り出した。
 
 
 そのときになって、ようやくだけど、彼女の言った“生きる”ということの意味が、わかった気がした。
 
 

 
 それは、最後の、休日の一幕。
 私は、結局最後の最後まで観客のままだったけれど。
 
 
 青空の下、公園の芝生の上で。
 誠司は彼女のひざを枕にして寝転がっていた。
 
 彼女は目を細めながらその手で優しげに誠司の髪を梳いていた。
 誠司はそっと、自分の手を彼女の手に重ねる。
 
 彼女はくす、と微笑んでいた。
 誠司も同じように笑っていた。
 
 二人は生きていた。
 精一杯生きていた。
 
 それが、私が最後に見た、二人が共に在ることのできた姿。
 陽光に融けていった、まひるのゆめのかたち。
 
 
 もう二度と見ることはない。
 そんな、まひるのゆめのかたち。
 
 

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