例えば――
 
 少女は問うた。
 
 あたしたちの住んでいるこの街が、明日にでも大災害に襲われて、住んでいる人がみんな死んでしまうとしたら。
 それをあらかじめ知っていることと知らないことと、どっちが幸せなのだろうね、と。
 
 この街が明日にでも大災害に襲われて、住んでいる人がみんな死んでしまうことをあらかじめ知ってしまったのなら。
 自分だけ逃れるのと、最後の最後まで同じ日常を過ごそうとするのは、どっちが幸せなのだろうね、と。
 
 私がその問いに答えると、ああ、同じなんだね。そう言って少女は笑った。
 
 ――強くて気丈な彼女と。弱いのに強い彼と。
 
 そう言って、少女は、泣きながら笑っていた。
 
 泣きながら、笑っていた。
 
 

 
 
 ちらりと、半ば無意識に翔子の姿を目で追っていることに気づいた。
 学校で再会した翔子は、私の知っている翔子だった。
 そして、それから月が変わった今の今まで、あのときの、氷のような『神谷翔子』を見たことは一度もなかった。
 だから、思ってしまう。
 あれは、悪い夢のようなものだったのではないかと。
 だが、悪い夢と片付けてしまうには、あまりにも強く刻まれてしまっているのだけれど。
 
「ん? 何か用?」
 どうやら、目で追っていたことに気づかれてしまったらしい。
 翔子は私に近づいて、そう問い掛けてきた。
「ううん、別に用があるとかじゃないんだけどね……」
 言葉を濁す。
 翔子はやや訝しげに私を見ていたが、やがて「そう」と一言。
「それならいいけど。でもさ、前にも言ったと思うけど、何か悩み事があったら相談するわよ?」
 それは、私の知っているいつもの翔子で。
 そして、本当に私のことを気遣ってくれていることがよくわかって。私は胸の奥に温かいものがこみ上げてくるのを感じていた。
「例えば恋愛悩み相談。面白おかしく聞いちゃうわよ」
 なんて、軽いノリで翔子は言う。
 ……いや、面白おかしく聞かれても困ると思う。
 第一、恋愛ごとなんて私は――――あ、いや、まったくないわけはないのですが、それは、とても相談しづらいです。
 
 そのとき、唐突に、翔子が「ふむ」と何かを納得したような表情をした。
「なるほど。恋はしているのだけれどそれを誰かに相談するのはまだはばかられる、といったところかしら?」
「え? えええっ!?」
 ちょっと待って翔子なんであなたそんなことがわかるのもしかしてエスパーエスパーなの私の心を読んだのああもうあまりの慌てふためきぶりに句読点すら忘れてしまうほどあせりにあせって混乱してしまっているのです
「どうしてそんなことがわかるのって顔ね。ふふ。本当に若菜ってわかりやすいんだから。なんかねぇ、最近、以前とちょっと雰囲気が違うなぁって思ってたのよ。それは、ほんのちょっぴりだからほとんどの人は気づかないと思うけど。で、それがなんか、恋する乙女の憂いってやつに似てたからちょっとカマをかけてみたの。それから相談するのがはばかられる、という点については、若菜だったら何らかの事情がない限り一部なり全部なり相談してくるはずだと思ったからなのよね」
 なんて、余裕綽々といった感じで説明してくださったのでした。
「そっかそっか。若菜にも春がきたのかぁ。いやはや、青春ってやつかしらねぇ」
 なんて言って、翔子はしみじみとしていた。
 でも多分、その春は、いろいろと問題があると思われます。
「でも、さ――」
 突然、翔子の頭が軽くかくんとたれ、彼女の前髪が、彼女の目を隠した。
「幸せって、難しいよね」
 まだ、翔子の目は私には見えない。
 だというのに、何故か、空気が、変わっていくような、気が、した。
 
 温度が、下がる。
 空気が、凍結する。
 世界が、反転する。
 現は夢で夢が現実。
 ざわめきが、遠い。
 そこはきっと私の知らないセカイ。
 私と向かい合っていた少女はすでに顔を起こしており、その双眸で私をただ見据えている。
 そこに、私の知らない『神谷翔子』がいた――
「本当は、誰だって幸せになる権利がある。だけど、誰もが幸せにはなれない。誰かの不幸の上に成り立つ幸せも確かに存在する。難しい。本当に難しい。その幸せを享受してよいのか、それでも幸せになろうとしてよいのか、その幸せを妥協するべきなのか。本当は、あたしだって幸せになる権利がある。だから難しい。難しい。難しい。だから、今はただ感謝する。その幸福があたしの幸福でもあることに」
「しょう……こ?」
 目の前にいる少女は翔子の顔をしている。翔子の声をしている。
 なのに、私は、この少女を神谷翔子だと、私の知る神谷翔子だと認識できていない。
 それは、感情を失ったかのような無表情のせいなのかもしれないし、その目のせいなのかもしれない。
「なのに、セカイはどうしてこんなにも優しくないのだろう? どうして――――無力感を味わわなくちゃいけないのだろう? きっと、ただ、幸せでいたいだけなのに。幸せであり続けていたいだけなのに。今はそれだけ、なのに。それは、あるいは難しいことなのかもしれないけれど。でも、それでも、もっと幸せになってもいいと思うのに。なのに、どうして――」
 そこにいる『神谷翔子』には、ぞっとするほどその声にもその顔にも感情の色がうかがえなくて。
 そのはずなのに、私には、その声が、まるで、慟哭の叫びのように聞こえた。
 そのはずなのに、私には、その顔が、まるで、泣きじゃくっているように見えた。
「あ、なた、は……」
 私の知っている翔子なの? と言いかけたがそれはかなわなかった。
 休み時間の終わりを告げるチャイムが鳴り響く。
 チャイムの音に気をとられて意識が少女からそれたのは本当にほんのわずかのこと。
「ああ、もう休み時間が終わっちゃったか」
 その言葉は、すでに私の聞き覚えのある、温度を伴った声。
「それじゃ、あたしは自分の席に戻るわ。またね」
 
 温度は戻っていた。
 空気は氷解していた。
 世界は再反転することで元の形を取り戻していた。
 現は現。夢は夢。
 ざわめきが耳朶を打つ。
 いつのまにか、私は私の知っているセカイに戻ってきた。
 神谷翔子は、すでに私の知っている神谷翔子だった。
 
 だからこそ、余計に、何が何なのかわからなくなった。
 
 

 
 
 ――セカイはどうしてこんなにも優しくないのだろう?
 
 
 あのときの翔子の言葉が、まだ頭の中をぐるぐる回る。
 
 普段の翔子は、おちゃらけた風ではあったのだが、それでも、時折、ほんの時折だったが、何か、普段とは違う空気を感じさせることがあった。
 だが、あんな風に私の知らない神谷翔子が顔を見せるようになったのは、私の記憶が正しければ、彼女と誠司が付き合ってからのような気がする。
 翔子が二人の関係を知っているかどうかは定かではないが、誠司か、あるいは彼女が話したのかもしれない。彼らの関係を鑑みるに、それはそうおかしなことでもないだろう。
 そう思えば、翔子が時々二人を微笑ましげに見ていたことだってある意味当然のことといえるのだろう。
 ただ、それに気づいている人はごく少数だろうが、たまに、つらそうに、悲しそうに、二人を見ていることもあった。
 気のせいだろうと思ったこともあった。
 だけど、それが、気のせいではないのだとしたら。
 
 私の知らない部分で、翔子は何を考えているのだろう。
 
 そんなことを思いながら歩いていたら、いつのまにか、神谷総合病院の目の前に立っていた。
 そこは、外科、内科、眼科、産婦人科、精神科、その他色々と多分野にわたっている大きな病院であり、この街の人はたいていこの病院に通う。
 ちなみに、神谷という名は気のせいでなく、翔子はこの病院の経営者の娘だったりする。
 それを知ったのはほんの数年前なのだけれども。
 翔子のことを考えていたから、無意識に翔子になじみの深い場所までやってきてしまったのかもしれない。
 
 
 
 しばしその場に立ちすくんで、ようやくその場から引き返そうとした時、病院の正面口から出てきた二人を見て、私の足は止まる。
 自然に、私は二人のもとへと駆け寄っていた。
「浅宮さんと……あの、えと、美由紀さん……ですよね?」
 その顔、身体の造詣、どこからどう見たって美由紀さんそのものにしか見えないが、それでもそう問わずにはいられなかった。
「そうですよ。どうなされたのですか?」
 なぜなら、その姿は逆に新鮮に思えたのだから。
「今日は、メイド服じゃないんですね」
 美由紀さんは一瞬きょとんとして、
「はあ、私ってそんなにメイド服のイメージが強かったのですか?」
 そんな美由紀さんを、浅宮さんはじとっとした目で見る。
「いまさら何を言っているんだか。何かにつけてメイドの格好をしていたのは美由紀だろう?」
「それは否定いたしませんけれど……。私だってデートのときとか、そういう特別なときくらいは普通に着飾ったりすると思われますよ?」
「なんでそこで疑問系なんだか。それに、別に今はデートでもなんでもないだろうに」
 浅宮さんは少々呆れ気味に言い放った。
「翔子だよ、翔子。ほら、翔子ってそういうの色々と持ってるでしょ? いくつか自作しているのもあるらしいし。それで、持っているだけに飽きたらず、他人にまで着せようとする癖があるんだよ」
 あ、それ、なんか思い当たるふしある。
「それで、翔子の押しに負けたんだよ。……まったく」
 何度言ってもメイド服から変えようとしなかったくせに、翔子のときばっかり……と、浅宮さんは愚痴をこぼしていた。
「ふぅん。なるほどね」
 すねた様子の浅宮さんは新鮮で、私は笑みがこぼれるのをおさえきれなかった。
 
「ですが、まあ、今回翔子様にお会いしたのはついでのようなものですけどね」
「え?」
「……美由紀」
 じろり、と浅宮さんが美由紀さんを睨む。
 美由紀さんは額に冷や汗を浮かべながら、
「あ、あはは、なんでもないですよ」
 手をパタパタと振っていた。
「?」
 単に翔子に会っていたというのなら、それはそれでまだわかるのだが、美由紀さんはそれがついでのようなものだと言ったその理由もわからなければ、浅宮さんが美由紀さんを睨む理由がよくわからない。
 結局、私には何が何だかさっぱりわからず、ただクエスチョンマークを頭の上に浮かべることしか出来なかった。
 
 

 
 
「あ、ちょっといいですか?」
 その日、私は帰り支度を済ませたばかりの彼女を呼び止めた。
 やっぱり恋をすれば女の子は綺麗になるのか、初めて彼女を見たときよりも、なんというか、明確に言葉で表すのは難しいのだけれど、あえて私の語彙でそれを表そうとするのならば、『すごく綺麗になった』とでも言うのだろうか。
 ……なんか、とても単純な表現というかそのまんまのような気がする。
 
 ともかく、私は彼女を呼び止めた。
 誠司は早退してしまったので、ここにはいない。
 だからこそ、私は彼女を呼び止めたのだともいえるのだが。
 ちょっとばかり唐突かもしれないとも思ったが、彼女は快く応じてくれた。
 
 そして、帰り道、私は彼女と二人で坂を下ってゆく。
 その最中、彼女の横顔を見た。
 彼女の顔自体は変わっているはずがないのに、それでも、なんだか、以前とは違って見えた。
 それは、彼女が変わったからなのか、彼女を見る私の認識が変わったからなのか、わからなかったのだけれど。
 
「それで、誠司とはどうなんですか?」
 そんな質問から切り出してみる。
「どう、とは?」
 そりゃあもう、色々と。
「別に、あえて語るようなことは何もないと思うけど、でも、うん。結構良好だし、このまま、ずっと誠司が隣にいてくれたらいいとは思うけど」
「なるほど。つまり、誠司のことを幸せにしてあげたい――ってやつですね」
「……それは、違うよ」
 彼女は、淡く微笑んで、言った。
「誰もが、誰かを幸せにすることなんか出来ない。少なくとも、私はそう思っている。だから、私が誠司を幸せにするわけじゃない」
「そんなことは――」
 ない、と言おうとして、彼女の声に遮られる。
「だけど、だけどね。幸せになることは出来る。そして、“幸せになる”ということを、そばで支えてあげることは出来ると思う。支えてもらうことは出来ると思う。だから、私は誠司のそばにいたいと願う。私は、誠司にそばにいてほしいと願う。こんな気持ちが私の中に生まれるなんて、本当に、自分でも意外なことだと思ったのだけど」
 そっと目を閉じて、胸に手を当てて、彼女は言った。
 それはきっと、彼女の心よりのコトバ。
 だって、ほら、こんなにもそのコトバは私の心の中に染み込んでいく。
 
「だから私は、赦される限り、誠司と一緒に歩いていきたい」
 その言葉に続いた、小さく、しかし、決意を込めたような声。
 だけど、私は最後までその言葉の本当の意味を理解することは出来なかった。
 ただ、はっきり覚えているのは、このとき初めて見て、強く印象に残った、ひどく優しい、笑顔。
「覚悟は――――出来ているから」
 
 

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