本当に何気ない日々。
 それが、何よりも貴いことだということに気づいたのは、いつのことだろう。
 
 あまりにもありふれていて、あまりにも変わらない。
 だから、ずっとそれを知らずにいた。
 
 でも、きっと君は、君たちは、そのことに気づいていたんだね。
 それが、何よりも大切で、とてもかけがえのないものだということに。
 
 
 
 今はただ語ろう。
 まだ、確かに君たちがすぐ近くにいた夏。
 
 
 
 
 誠司の『彼女』の名前。
 その名前には聞き覚えがあった。いや、聞き覚えがあったなんていうものではない。
 それはそうだ。彼女は、私の、私たちの身近にいるのだから。
 私は一人、彼女の姿を脳裏に思い浮かべた。
 誠司と彼女が付き合うことになったのは、意外といえば意外だし、意外でもないといわれれば意外でもない。
 じゃあどっちなのかと問われても、どっちなんだろう? としか返せないのではあるが。
 
 あづい……。
 少し思考をとめたら、暑さがぶり返してきた。
 八月に入り、夏も真っ盛り。
 冷凍庫からアイスを一本拝借し、口にくわえてぷらぷらさせてみた。
 夏休みの友はまだ手付かずのまま放置されている。
 というかあんたら友じゃなくて強敵と書いて【じゃまもの】だ。絶対。
 きっと今年も夏休みが終わる頃になって必死になって消化したり親に怒られたり右往左往したりするのだろう。
 でもやめられないんだなぁ、コレが。
 だって楽しめるうちに楽しんでおかなくちゃ損でしょ?
 ……ええ、ええ。
 どうせ私は誠司や環や小夜ちゃんや浅宮さんみたいに七月中に終わらせられるだけ終わらせるなんて器用な真似は出来ませんとも!
 それにしても、あつい……。扇風機の風はぬるいし。
 クーラーを買うだけの資金はあるはずなのに、両親ともに夏は自然派らしくて家には未だに扇風機くらいしかない。
 昔はしつこくクーラーをねだったこともあったが、今ではもうあきらめてしまった。
 再び冷凍庫の前に行き、氷を一つ二つ回収し、再び扇風機の前へ。
 扇風機の上に氷を乗っける。暑さで溶けた氷水はそのまま回転する羽にあたり、冷たい水しぶきが飛ぶ。
 ただ、これをやると扇風機の下は水でべちょべちょになるし、
 氷が小さくなってきたら取り除かないと扇風機の羽が氷のかけらを弾いてしまうという事態になりかねないので注意が必要だ。
 
 そうして扇風機からはねる水しぶきの冷たさを楽しんでいると、電話が鳴り出した。
 今この家には私しかいない。
 私の部屋に置いてある子機が鳴り出したのを見計らって、私はその子機を手に取った。
「はい、もしもし。葉籐ですが」
 
 
 
 
 がたんごとん、と心地よい音を立てながら走る電車。
 私たちは、その電車の中にいた。
 これから、電車で一時間ほど先にある浜辺に向かうのだ。
 
 
 私は窓の外、流れる景色を眺めていた。
 遠くの景色はあまり流れているようには見えないのに、近くの風景はめまぐるしく流れてゆく。
 広い意味でのセカイは大きく変わったように見えないけれど、身近なセカイ――例えば彼女と誠司の間柄のような――は、どんどん移り変わってしまっている。それこそ、めまぐるしく。
 
 
 目を閉じる。
 目を閉じれば何も見えない。だけどそれは見えないだけ。
 あるものはあり、ないものはなく、違うけど、違わない。
 取り巻くセカイはきっと何一つとして変わらない。
 ならばこれは、逃げ、なのだろうか。
 私は目を開ける。
 世の中には見えるのに見えないものがあって、見えないのに見えるものがある。
 もっと、わかりやすければよいのに。
 私は窓の外で流れる景色を眺めながら、ひとつ、息を吐いた。
「若菜」
 ぽん、と肩をたたかれる。
 振り返ると、そこには翔子がいた。
「どうしたの? そんな辛気臭い顔しちゃって」
「辛気臭い顔……してた?」
「してたしてた」
 うんうんと頷く翔子。
「何か悩み事があるのでしたら、相談に乗りますわよ?」と環。
 その心遣いが、なんだか、嬉しかった。
「ううん。たいしたことじゃないから大丈夫」
 そう。セカイにとっては、たいしたことじゃない。きっと。
「それならいいけど。でも、何かあったら自分の中だけに押し込めようとしないで相談してよね。親友でしょ。あたしたち」
 朗らかな表情の翔子。
 ただ明るいだけではなく、どこか慈愛を含んだ顔。
 翔子ってこんな顔も出来るんだ。
 身近にいたはずなのに、知らなかったこと。
 それを知ることが出来て、なんだか、嬉しかった。
 
 そうだよね。せっかく海に行くんだもん。辛気臭いことばっかり考えるのは止めて素直に楽しもう。
 私は軽く頭を振って、そう思考を切り替えることにした。
 
 
 
 
「やはりというかなんというか、みんな考えることは一緒なのかしら」
 目的地である海岸に到達した私たちだったが、先ほど言ったとおり、みんな考えることは一緒なのだろうか。
 浜辺はたくさんの人でにぎわっていた。
「それにしても、ずいぶんと混み合っているんだな」
 浅宮さんが半ば呆れたように言う。
 そういえば、去年までは浅宮さんはついてきていなかったんだっけ。
 だから、浅宮さんは知らないんだ。
「そのあたりは大丈夫。海岸線沿いにぐるっと回ったあたりに穴場があるから。そこならすいていると思うよ」
 他の人に聞かれないようにという心理が働いたためか、心なしか小声になっていた。
 
 そうして私たちはその穴場へとやってきた。
 やはりと言うべきか、先ほどの浜辺とは違い、他に人の姿はなく、快適に海水浴を楽しめそうだった。
 道路が遠くて海の家が近くにないのも、人気のない理由の一端を担っているのかもしれない。
 
「そーれ!」
「えいっ、やったなー!」
 ぱしゃぱしゃと、波打ち際で水をかけあう。
 そんな中、誠司は波打ち際から少し離れた、日陰になっているところで座り込んでいた。
「誠司も混ざらない?」
 誠司は申し訳なさげに手を振る。
「ごめん。やめておくよ」
 途端、翔子がにやりと笑う。
「なるほど。波打ち際にて無邪気に白い波と戯れる乙女たち。その光景を見ていたら立てなくなってしまったのね!?」
 びしいっ! と音がしそうな勢いで誠司を指差していた。
 どうでもいいことかもしれないけれど、人を指差すのはあまりよくないって聞いているよ翔子。
「え? 別に立てるけど?」
 そう言ってすっくと立ち上がって見せる誠司。
「うう。冗談が通じない」
「その冗談は低俗な上に性質が悪すぎますわよ」
「それは同感」
「ううう。要芽まであたしのこと、いぢめる」
 
 
 
「んふ〜、それにしても、やっぱり要芽、いいプロポーションしてるわね」
 唐突に、翔子がそんなことを言い出す。
 存外に立ち直りは早かった。
「翔子、その視線といい発言といい、エロオヤジのそれと同じに思える――」
「ところで要芽、これをを身につけてみるつもりはありませんかね?」
 翔子がやや粗い息遣いをしながら彼女自身の荷物をあさり、取り出したるもの。それは……。
「………………」
 当人の冷ややかな目。それは無理もないだろう。
 みんなは思わず凍り付いてしまっている。
 ようやく、私の口が動いた。
「……何故に、すくぅるみずぎ?」
 しかも、白。やけに、眩しい。
「なんか微妙にサイズが合っていそうなのが嫌な感じだなぁ……」
「もちろんそこは抜かりなくてよ!」
 そう言って翔子は高々と親指を天へと上げる。
 とりあえず言っておきたい。何故に、似非お嬢言葉?
 あ、環の顔が微妙にひきつってる。
「ちゃんとみんなの分も用意してあるから! さあ、受け取って装着を果たし、そして見せて! そのまぶしい御姿を!」
 そう言って翔子はソレを私たち女性陣全てに渡してきた。
 しかも、おのおののサイズにぴたりと合わせたつくり。
 一部胸のあたりにやや無理が出そうな人物もいるが。
 というか、みんな白色なのに小夜ちゃんのソレは、スタンダードに紺色。しかも胸の部分には『さよ』の文字。
 あえてひらがなで書いてあるところにこだわりが感じられる。
 色々と言いたいことはあるが、とりあえずこれだけは真っ先に言っておきたい。翔子、あなたどうやって私たちのスリーサイズを調べた?
 翔子のその笑顔が、いやに眩しかった。
 潮騒の音が、遠ざかっていったような気が、した。
 
 
 
 
「それじゃあ、スイカはここにおいて、と」
 砂浜にスイカが置かれる。夏の海辺の風物詩、スイカ割りだ。
「それでは若菜様。目隠しをいたしますね」
 言うが早いか美由紀さんはあっという間に私に目隠しを施した。
「おーい」
「よし、それじゃあその場で脅威の三十回転!」
 ぐるぐるぐる……と猛烈なスピードで回転させられる。目隠しをされているので、思っているよりは早くないのかもしれないが。
「それにしても、美由紀、律儀に着ることもないだろうに」
 半ば呆れたような、浅宮さんの、声。
「自分の分の水着を持ってきてまいりませんでしたから。むしろ助かりました」
「それでもヘッドドレスはつけたままなんだな」
「ねぇ、みんなー?」
「メイドとして当然のことでございます」
「わかった。それはもういい。だけどな、その、なんだ。胸のあたり、苦しくないか? その水着じゃ」
「あら。むらっときちゃいましたか?」
 風を切るような音が聞こえた気がした。
 すごい衝突音が聞こえた気がした。
 何かが砂浜に倒れふす音が聞こえたような気がした。
「余計な発言はいらない。心しておけ。聞こえていたらの話だが」
 静かな声音が、逆に怖かった。
 私は目隠しをしているので、何があったのか、よくわからないけれど。
 
 ちなみに、関係ないかもしれないが、小夜ちゃんも律儀にあのスクール水着を装着している。もじもじしている様子が実にかわいらしかった。
 今は見ることが出来ないのがすごく残念だ。
 …………お持ち帰りしても、かまいませんかね?
「そういえば、死刑囚には目隠しをするらしいな。見えないということが恐怖をあおって逆に騒ぎ立てられなくなるんだとか」
 ごめんなさい。なんでもありません。
 
「あの、これって何かの冗談だよね? ……ね?」
 翔子がなにやら泣き笑いの表情を浮かべていた。
 無理もない。今彼女は頭だけを出した状態で砂浜に埋められているのだから。
 しかも縦に。前述したが、頭だけしか地上に出ていないその状態で、一人で抜け出すのは非常に難しい。
 というか、普通の人には不可能ではないだろうか。
 そして。
 翔子の隣にスイカが一つ。
 これ以上説明しなくても、なんとなく状況はわかってもらえることと思う。
「翔子、あなたはやりすぎたのだよ」
 実に冷ややかな、声。
 やっぱり怒らせると怖いんだなぁとしみじみながらに思った。
「翔子様、心配は無用ですよ。そこは潮が満ちても水没いたしませんので」
 復活したらしい美由紀さんのお言葉。……それ、恐怖をあおるだけのような気がするんですけど。
「右、もっと右!」
「ちょっと右に行き過ぎましてよ。やや左ですわ!」
 それらの声に後押しされるように、私は進んでいく。
 前は見えない。不安はある。だが、その言葉を信じて私は進んでいく。
「あわわわ……」
 小夜ちゃんが、自分はどうしたらいいのかわからないとでも言うかのようにそんな声を上げる。
 一種異様な空気に気づいたのだろう。
 でも、大丈夫だよ小夜ちゃん。
 きっと、すぐに終わるから。
「ね、ねぇ若菜。あたしたち、親友よね?」
 前方から震えた声。怯えの色を含んでいるようにも感じられる。
「ええ。私たちは親友よね」
 ……脳内から不要情報を削除。行動に支障をきたす無駄な感情を排斥。
 執行、執行、執行。
「わぁ。なんか怖いことを考えている気がするんですけど」
「気のせいよ」
「でも、なんか、雰囲気が」
「気のせいよ」
「……はぃ」
 
 
「よし、そこだ!」
 私はその声に従いぴたりと止まった。
「ちょ、若菜!? スイカはとなりだってば!」
「いいえ、そのままですわ! さあ、おもいきりやっておしまいなさいな!」
 私は手にもっていたそれを両手でしっかりと持ち、大きく振り上げる。
 
「あ は は は は は は は は は」
 
「怖ッ! なんでそこでそんなふうに笑うのよ!?」
 その声は、聞こえない。
 私は手に持っているものをさらに大きく、限界まで振り上げて、
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「あはははははははははは」
 
 ――精一杯力を込めて振り下ろした。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 そして、私が振り下ろしたハリセンは、翔子の脳天にみごとなまでにクリーンヒットした。
 まあ、さすがに本来スイカ割りに使うだろう棒状の鈍器を用いたら翔子に怪我を負わせかねないし、そこは優しさというものである。
「うう、なんかヒリヒリするよ」
 ようやく地表に身体をさらすことが許された翔子は、やや涙目になりながらも自分の頭をさすっていた。
 怪我をした様子はない。派手な音はしたものの、所詮は紙製のハリセン。そう大事になるはずもなかった。
「ひどいなぁ、もう。思いっきりはたくんだもん」
「悪ふざけが過ぎた翔子にも責任はあると思うけど」
 むしろ感謝してほしいくらいだ。
 さすがに『粉砕バット』は洒落にならない事態になるからって説得したのだから。
 あの雰囲気じゃ、私たちが止めなかったらハリセンじゃなくて粉砕バットが翔子の頭を文字通り“粉砕”していたかもしれないのだから。
 いや、さすがにそこまではいかないかもしれないけれど。
「まあ、確かにやりすぎたかもしれないということは認めるけどね」
 乾いた笑い。翔子の顔は微妙に引きつっていた。
 おそらく、私よりも、それが冗談ですまなかったかもしれないということを察したのだろう。
「なんか、要芽のことからかうの楽しくて。ほら、要芽って無愛想なところあるでしょ? でも、その分だけめったに見られない表情を見ることが出来たらなんか嬉しいなって思うんだよね」
「だとしても、あれはどうかと思うが」
 うわさをすれば影という言葉どおり、ご当人がこの場にきた。
 度のついたゴーグルを、今は額にかけている。
 だから、もしかしたら、顔を見るために目を細めている様子が睨んでいるように見えているのかも、と思ってみたが、
 彼女から湧き上がっているように感じられた怒気がそれを否定した。
「要芽、もしかして怒ってる?」
「それなりに。ああいうことを私一人にされても困るんだが、女性陣全員にスクール水着というのは明らかにやりすぎだろう」
「それはそれであたしの趣味も混じってたんだけど」
「なおさら悪い!」
 二人を見ていると、不思議と顔がほころぶ。
 今は険悪気味に言い合っているようにも見えるけど、本当は仲がよいのだということがよくわかるから。
 そういえば、以前に翔子が親戚同士だと言っていたけど、だとしたら、私の知らない時間というものがそこにはあるのかもしれない。
「なに笑ってる?」
 そんな私の表情に気づいたらしく、ややぶすっとした表情で言ってくる。
 とはいえ、彼女はもともとそれに近い表情をしているのだけれど。
「ん、なんか仲がいいなぁって思って」
「そりゃあ、気の置けない間柄ですから」
 何故か自慢げに翔子。それはきっと確かなことなんだろう。
 私の知らない翔子を知っているであろう彼女が、私の知らない彼女を知っているであろう翔子が、なんだか、うらやましかった。
 
 
 
 
「皆さん、スイカが切れましたよ」
 美由紀さんの声が聞こえてくる。
 結局、スイカは割られるのではなく、綺麗に切られることになったらしい。
 スイカを切るための刃物の所在うんぬんについてはいろいろとあるだろうが、
 多少なりとも彼女を知る者なら『まあ、美由紀さんだし』の一言で説明は充分だろう。
 すでに誠司たちはスイカをかぶりつき始めている。
 
 ……セカイのことなんて、やっぱりよくわからないけれど。
 それでも、私はセカイにたった独りで取り残されたわけじゃないんだから。
 少しだけ、靄が晴れた気がした。
 
「私の分、まだ残ってるんでしょうね!?」
「『私の分』じゃなくて『私たちの分』でしょ?」
「細かいことはどうだっていいの!」
 そんな他愛もないことを言い合いながら、私たちはその場所へと向かったのだ。
 
 
 
 
 それは、私が観測し損ねた情景で、だから私には知りえようがなかったのだけれど。
 だから、これはセカイの事実としてのみ残っている。
 
「……ねえ、要芽。夏はもう残り少ないよ」
 その翔子の声には感情の色が見られなかった。
 普段の彼女を知っている人なら、驚くほどに。
 しかし、要芽と呼ばれたその少女は驚きの感情を抱くことはなく、ただ頷いた。
 翔子は再び感情の色を取り戻し、肩をすくめた。
「少しは、安心してたんだけどねぇ。本当は、あたしの立場からすれば、安堵しちゃいけないのかもしれないけれど」
 そんなことはないとでも言うかのように、少女は横に小さく首を振った。
 わずかに、時が凍りついたかのような静寂。
 その静寂を破ったのは、今や二人にとってなじみの深い少女の声だった。
「二人とも、遅いよ!」
「っと、いつの間にか足が止まっちゃってたみたいだね。若菜は先に行っちゃってたか」
 ぺろっと舌を出して、翔子は隣にいる少女に手を差し出した。
「それでは参りましょうか、要芽様。ってね」
 彼女は苦笑しながら差し出された翔子の手をとった。
 そして、二人の少女は浜辺を駆け出したのだ。
 
 

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