みーんみーん
 じーわじーわ
 
 どこからか蝉の鳴く声。
 長いときを地に臥して。
 地より這い出でて、精一杯鳴く蝉の声。
 それはまるで、一夏きりの短い命を自己主張するかのように。
 
 どうして、私はそれを悲しいと思ったのだろう?
 
 
 
 みーんみーん
 じーわじーわ
 
 また迎えた夏。
 君のいない夏。
 どこからか蝉の鳴く声。
 もう君はいないのに、それでも蝉の鳴く夏。
 夏を謳歌するように精一杯鳴く蝉。
 一夏きりの命を自己主張するかのように。
 ああ。そうだ。だから私はこんなにも悲しく思うのだ。
 短い季節を精一杯生きようとする様が、君にあまりにも似ていたから。
 
 
 
 今はただ語ろう。
 まだ、君のいた夏。
 
 
 
 
「あ〜づ〜い〜」
 私は教室の机でだらしなくだれていた。
 七月も中盤に差し掛かり、もうすぐ楽しい夏休みが私たちを待っている。
 ……のだが、この暑さはどうにかならないものだろうか。
「汗が蒸発すれば気化熱が奪われて体温が下がるから、気温が高くても湿気が低ければそこまで不快にはならないんだろうけど、日本の夏は気温だけじゃなく、全般的に湿気も高いからな。汗は蒸発しにくいから体感温度がうまく下がらないし、じとじとして不快感がぬぐえない。比較的からっとした地域からこういう湿気の高い地域に移動した際、空気が水っぽいって感じたほどだからな」
 ご説明ありがとうございます、浅宮さん。
「あ〜もう、早く冬来ないかしら冬」
「冬がきたらきたで『早く夏来ないかしら』とか言うくせに」
 誠司うるさい。
 確かに事実ではあるけども、いや、事実だからこそ言われたくはないというのに。
「でもさ、季節をその季節として受け入れるのも、悪くはないと思うんだよね。ほら、せっかく四季折々の国にいるんだし、そう思わないと損じゃないかな、ってあたしは思うんだけど」
 どこか軽い様子で、翔子。
 というか翔子、夏に入ってますます元気になっている気がする。
 ……いや、“気がする”じゃないな。毎年そうだったっけ。なんというか、翔子ってもしかして夏娘?
「思いませんわ……。冬の方がいいに決まっていますわ。寒さは厚着でカバーできても、暑さは薄着になってもカバーしきれませんもの……」
 とまあ、こちらは環。
 いい感じに茹だっているようにも見える。
 環は、翔子とは逆に夏が苦手らしい。
「言いようはその人その人であると思うけど。確かに、その季節をその季節として受け入れる、というのは悪くないと思うな」
 その後に続いて浅宮さんが呟いた言葉。
 小さく小さく呟いた言葉。
 かろうじて聞き取れた言葉。
 それは、今でも心に焼き付いている。
 
 ――また、同じ季節が必ず巡ってくるなんて、誰にも保証できないのだから。
 
 
 
 
 その時はまだ気づかなかったけど、今にして思えば、彼女と誠司はよく一緒にいた気がする。
 それは当然ながら常に二人きりだったというわけではなかったのだけど。
 それでも、確かに、誠司のそばに彼女がいるところを見ることが多くなっていたのだ。
 そう。確かに前兆はあったのだ。
 
 そのときは、本当に、気づこうともしていなかったのだけれど。
 
 
 
 
 日曜の昼下がり。
 私は焼けつくような日差しの中、商店街にむけて歩いていた。
 暑い。熱い。アツイ。
 こういうときに買い物を頼むとは、うちの親はなかなか酷い。
 手で顔をパタパタとあおいでみる。あんまり涼しくならない。むしろちょっとむなしくなった。
 そんな道すがら、私は見知った二人を見かけた。
「あれ? 小夜ちゃん……と浅宮さん」
 少し距離はあるが、多分間違いないと思う。
 二人はなにやら会話をしていた様子だったが、ここからではその内容が聞き取れない。
 私は二人に近づく。と、浅宮さんが私の存在に気づいたようだった。
「あれ、若菜じゃないか」
「ホントだ。お姉ちゃんだ」
 すぐに、小夜ちゃんも私に気がつく。
 私はそのまま二人に駆け寄った。
「ねえ、さっき二人は何を話していたの?」
「ん……。個人的なことを少々ってやつかな」
「そうですね」
 そう言って小夜ちゃんは苦笑していた。
 その表情を見るに、どうやら、それ以上詳しく教えてもらえそうにはなかった。
 
「でも、浅宮さん、いつの間に小夜ちゃんとそんなに親しくなったの?」
「ん。まぁ、いろいろとあってね。今ではこんな風に、ただならぬ関係ってやつになったというところかな」
 そう言って浅宮さんは小夜ちゃんを抱き寄せてみせる。
 対する小夜ちゃんはきょとんとして、
「そうだったんですか?」
「……いや、そこは話を合わせるか、そうでなかったら慌てるかくらいしてくれないと面白みがないんだが」
「あ、でも、確かにただならぬ関係といえばただならぬ関係ですよね」
「そうだっけ?」
「どうでしょう?」
 ……なんか、もしかしてこの二人、結構相性いいのかしら?
 そんなことを思った、ある夏の昼下がり。
 
 
 
 
「……で、要芽の魅力をもっと引き出すにはどうしたらいいかを若菜にも考えてもらいたいのよ」
 とりあえず説明しておきます。捕まりました。翔子に捕獲されました。
 現在、翔子のお部屋にいたりします。
 ジュース美味しいです。クーラーが涼しいです。はい。ちょっとばかし現実逃避してました。
「まず、あたしとしては眼鏡を外してコンタクトに変えるところから始めた方がいいと思うんだけど」
 でも要芽ってコンタクトレンズ嫌いみたいなんだよね。目に入れるところとか。なんてぼやく翔子。
「あの、翔子?」
「なぁに?」
「どうしてそんな話になっているの?」
「だって、前々から思っていたんだけど、もったいないなって思って。あれだけ素材はいいんだから、ちょっとそれっぽく意識を変えるだけでもっと良くなると思うのに」
 まあ、確かに素材はいいとは思うけど。私の問いかけに対する答えにはなっていないよね。うん。
 あとさ翔子、そんな露出度の高いドレスとか、そんなスケスケの下着とか出されたって、私だって嫌だと思うよ。
 というか、どこからそんなモノ調達してくるのかしら?
「いや、これは極端な例だってわかってはいるけど」
 なんて言ってそれらの過剰グッズをいそいそとしまう翔子。
 わかっているなら初めから出さなきゃいいでしょうが。
「大体さ、どうしてそんなに気にするわけ?」
 まったくわからない、というわけではないと思う。ただ、それでも私にはわからないことの方が多い。
「クラスの中で知ってる人はまずいないと思うけど、あたしの親戚になるのかしら、要芽は。まあ、他にもちょっと複雑な事情というものがあるけどね」
 だからこそ余計にもったいない、って思っちゃうのよね。余計なお世話なのかもしれないっていうのはわかっていてもさ。
 なんて、苦笑気味に翔子は言う。
「へえ……。親戚、なんだ」
 それは確かに新事実だ。
 まあ、いくつか疑問点がないわけでもなかったが、おそらくはその複雑な事情とやらに含まれているのだろう。
 その事情とやらには興味があったが、けっこう話したがりな面のある翔子があえて“複雑な事情”と言葉を濁しているのだ。訊いたってまともに答えてはくれないだろう。そう思ったから、そのことに関してそれ以上つっこんだ事は訊かなかった。
 
 
 
「それから、さ」
 ジュースを飲み干して、急に翔子の表情が引き締まる。
 まるで、先ほどまでの話は前振りで、こちらが本番とでもいうかのように。
「若菜は、誠司のことどう思っているのかしら?」
 以前にも似たようなことを訊かれた気がする。
 ただ、以前はもっと冗談めかしていたのに比べて、ひどく、真剣な空気が漂っているように感じられる。
 今この部屋にいるのは私と翔子だけ。環も浅宮さんも、小夜ちゃんも長谷川さんも、当然、誠司もいない。
 翔子は真っ直ぐ私を見ている。それはまるで、虚言を許さないといわんばかりに。
 窓からはかすかに蝉の声。
「どう……って言われても、別に変わらないわよ。誠司とは幼馴染で、兄弟のようなもので。それだけでしかないわ」
 翔子は真剣な目で私の目を覗く。
 まるで、瞳の奥にある真実を見透かそうとするかのように。
 とはいえ、先ほど私が言ったことは私にとって真実であり、偽ったつもりなどこれっぽっちもないのだけれど。
「……そう」
 しばらくして、翔子はまるで安堵したかのようにただそれだけを言った。
 その様子が妙に気にかかって、
「ねえ、翔子」
「なにかしら?」
「翔子ってもしかして、誠司のことが好きなの?」
 その問いかけに、翔子は、
「そうね。確かに好きだよ」
 なんのためらいもなく、あたりまえのように言ってのけた。
「友達として、だけどね」
 
 
 
 ようやく解放されたあと、私は暑い日差しの中を歩きながら、その暑ささえもまともに考えられなくなっていた。
 変わっていく。何が、なのかはまだわからないけれど。それでも何かが変わっていっている。そう感じずにはいられなかった。
 変わらずにはいられない。それは、頭の片隅で理解して、覚悟していたはずだったのに。
 いや、結局のところ、理解も覚悟もしていなかったのかもしれない。
 今まではただ、変遷に身をゆだねていただけだったのかもしれない。
 その方が楽だから。何も知らないコドモだったから。考えなくてもどうにかなったから。
 次第に分化していく境界。きっと、避けられないこと。
 それでも誠司のことは兄弟同然にしか感じられないから、私の誠司に対する態度は変わらないと思うし、変えなくてもすむかもしれないけれど。
 でも、誠司はどうなのだろう?
 誠司を取り巻くセカイはどうなのだろう?
 今まで考えもしなかったこと。
 考えなくても良かったこと。どうにかなっていたこと。
 それが今、ひどく気にかかって仕方がなかった。
 
 
 
 
「ねえ、誠司」
 学校帰りの途中で、私は誠司を呼び止めた。
 場合によっては小夜ちゃんと一緒に帰ることもよくあるのだが、今回は一人だった。
 今回、それはむしろ望むところだったのだけれど。
「一緒に帰ってもいいかしら?」
「それは別にかまわないけど」
 何を今更、みたいな顔をして誠司は言う。
「どうしたのさ? 今まではそんなこと言わなかったじゃないか」
「私の方にも色々とあったのよ。心境の変化とか」
 誠司は私を揶揄するようなことは何一つ言わず、ただ「……そう」とだけ言った。
「そういえばそうだったね。僕は男で若菜は女の子。そんなあたりまえのことすら、今まで実感していなかったんだね。いや、若菜にとっては失礼かもしれないけど、僕は今でも若菜のことを“そういう対象”として実感できないままだな」
「それについてはご心配なく。私だってそうよ」
「あ、そうなんだ」なんて、誠司はちょっぴり複雑そうな顔をして苦笑していた。
 
「それで、心境の変化って何? もしかして、誰か好きな人でも出来たの?」
 そんな誠司の言葉に、私は肩をすくめて見せた。
「それならそれで面白みもあるんだろうけど。残念ながらまったくそんな気になれないのよね」
「ふうん。若菜って外見も性格も悪くないと思うし、その気になれば若菜と付き合いたいと思う人だって出てくると思うんだけどな」
「へぇ」私は意地悪な笑みを浮かべて見せた。
「じゃあ、誠司が私と付き合ってみる?」
 冗談交じりの一言。
 それを冗談と受け取ったのか、本気と受け取ったのかはわからないけれど。
「ゴメン。それは無理だよ」
 なんて、誠司は見るからに本気の表情で言ってくれました。
「ひっどいなぁ。そりゃあ、私だって本気じゃなかったけどさ。そこまできっぱりと言う事ないじゃないの」
 誠司は申し訳なさそうに、しかし毅然とした態度で、
「そうだね。冗談だろうとは思っていた。だけど、もし本気だったらと考えると、ううん、たとえ冗談だったとしても、こたえることは、できない」
 軽く首を横に振ってから私を見た、誠司のその表情は、何かを吹っ切ったような、とてもさわやかな笑顔だった。
 
 そんな晴れやかな顔をして、そのとき君はこう言ったのだ。
 ――僕には今、付き合っている人がいるからね。
 その言葉が耳から脳に伝わるまでに多分三秒くらい。
 脳に届いた言葉の意味が理解されるまでにおそらく五秒くらい。
 念のために「そういう意味なの?」と訊ねたら肯定された。
「そうなんだ」と私は言った。
 もしかしたら、もう少し年月が経っていたら、もっと別の感情もあったのかもしれないけれど。
 そのときは、本当に、私はそれだけしか思わなかったのだ。
 
「いつから?」
「大体、七月の初め頃、いや、六月の終わり頃からかな」
「ふーん。そうなんだ……」
 私は一度だけ空を見上げ、俯く。
「どうしたのさ?」と誠司が私の顔を見て問い掛ける。
 それは、本当に無防備で。つまり、それが私と誠司の関係で。
 それは変わらないのに、でも、確かに誠司は変わっていっている。
 まるで、置いていかれてしまいそうで。私はどこかか細い声で、ごちていた。
「色々なものがどんどん変わっていく。外見も、感覚も、世の中も、様々なものが。それが、なんだか物悲しく感じちゃって」
 変わっていく。変わっていく。いろんなものが変わっていく。
 それは、物悲しくて、なんだか怖い。
 見えない暗闇の中を、手探りで進んでいくようで。
 誠司はふっと微笑んで、空を見上げた。
「そうかも、しれないけどね」
 大きな、大きな、果ての見えない青空。
「何もかもが、変わらずにはいられなくて。だけど変わらないものはきっとあって。それはすごく大切なものなんじゃないかと、そう思うんだよ」
 そう言って誠司は私の目を覗き込んでいた。
「あせらなくても、きっと大丈夫だよ。若菜ならきっと、自分が望む方に変わっていける」
 違うかな? なんて、表情は言葉とは裏腹にどこまでも明るいくせして、そんなことを言うのだ。
 私は、呆れとも感嘆ともつかないため息を吐く。
「誠司って、どこまでいっても誠司なんだね」
「え?」
「ううん、なんでもない。こっちの話だから」
 そう言って、多分気恥ずかしくなったのだろう。私はそのまま駆け出した。
 誠司よりも前に、だけど誠司はまだ視界の中にとどめられていて。
 
 きっと、それは、キラキラと、キラキラと、何よりも、輝いていた日のこと。
 君のいた、そんな夏の日のこと。
 
 

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