さりとてあんな訣別の日

 

 

「もうすぐ、だね」

 ぼくは、軽く肺にたまった息を吐き出した。

「今年こそ、ミーコを連れて行こうと思う」

 そう言ったぼくを、潤は驚いたような顔で見ていた。

 今いるのは潤の自宅である。

 ちなみに、今そばにミーコはいない。

 ミーコは、潤の家にお世話になっているフルールさんがお出かけに連れて行った。

「お前……」

「出来るだけ、考えないようにしていた。そして今までずっと避けてきた。それは、本当に悲しいことだったから。だけど、ぼくはミーコを愛しいと思っている。それならば、いつかは向かい合わなくてはならないことだから」

「つらくは……ないのか?」

「つらいよ。すごくつらい。でも、それでも、このままじゃダメだから。このままじゃ、きっといつか、ミーコから顔を背けてしまうから」

「そっか」

 潤は薄く笑った。

 それは、本当に優しさの伝わってくる笑顔。

「強くなったな。お前」

「それは、どう……なんだろうね」

「いや、強くなった。本当に。あの頃に比べれば」

 潤は自嘲気味な笑顔を浮かべた。

「悪いとは思うけどさ、本当のところ、初めはお前達二人がこうなるとまでは思っていなかった。お前はずっと、あの娘の姿を、あの娘の面影を、追いつづけるのだと思っていた」

 ぼくは、淡く笑った。

「そうだね。ぼくも、そう思っていたよ」

 そう。あの頃は確かに、そう思っていた。

 でも、今は違う。

 ミーコは、あいつの代わりなんかじゃない。

 今なら言える。

 ミーコはミーコだからこそ大切で、ミーコだからこそ、愛しいのだと。

 

 

 

「ミーコ。今日は一緒に行こうか」

 その日、ぼくはミーコにそう声をかけた。

 ミーコは意外そうな顔でぼくを見上げていた。

 無理もない。毎年この日はぼく一人であの場所へと向かっていたのだから。

 いや、それさえもミーコと一緒にいてしばらくしてのことだった。

 それまでは、その事実を認めることさえ出来なくてずっと敬遠していたのだから。

 

 ぼくがミーコをおいて一人であの場所へ行くとき、そのときはいつもミーコは寂しそうな顔をしていたけど、それでも何かを感じ取っていたのか、連れて行ってほしいとか、そんなことは一言も言わなかった。

 だけど本当は、その言葉を言ってほしかったのかもしれない。

 連れて行かなければならない理由というものを、心のどこかで欲していたのかもしれない。

 しかし、それはやっぱり逃げでしかない。

 だからぼくは、ぼく自身の意志で、ミーコをあの場所へと連れて行くことに決めた。

「いいの? ご主人様?」

 ミーコはつぶらな瞳でぼくを見上げていた。

 ぼくは迷いなく頷いた。

「うん。というより、ぜひ一緒に来てほしい」

 途端にミーコの顔がぱあっと明るくなった。

「うん! それじゃあお着替えしてくるね!」

 ミーコは嬉しそうな表情でとてとてと着替えのために駆けていった。

 ぼくはその嬉しそうな様子を見て、ちくり、と針で胸を刺されたような痛みを覚えた。

 肉体的な痛みではなく、精神的な痛み。

「ご主人様、お着替えしてきたよ!」

 少しだけ時間をかけて、ミーコはとてとてとぼくのもとにやって来た。

 明るい水色のワンピース。

 それはまるで、青空の色を映しているようで。

 なんて皮肉なことだと、思った。

 あいつは、青空が好きだって、青空の抜けるような青が好きだって、何度も言っていたから。

 

 

 

 ぼくたちは、寺へと、その裏手にある墓地へと歩いていた。

 じゃりじゃりと砂利を踏み歩く音が聞こえる。

 少し時期は外れているが、そんなことは関係ない。

 だって、今日はあいつの命日なのだから。

 

 ひとつの墓の前にぼくたちは立っていた。

 ミーコは首をかしげてぼくを見る。

「ご主人様、ここは?」

「ここはね……、ぼくの、大切な――」

 

 ひとつ、大きな音を立てて風が吹いた。

 ふたりの話し声なんか、かき消してしまうほどに。

 

「にゃあ……、そう、なんだ……」

 少しだけ、寂しそうな声。

 ぼくは静かに頷いた。

 

 

 

 ぼくはその墓に花と線香を添えた。

 線香から立ち上る煙が天高く舞い上がる。

 まるで、おもいを空の向こうへと届けるように。

 ぼくは目を閉じて手を合わせた。

 ミーコもぼくに倣って手を合わせる。

 声が消える。

 ただ、さわさわとそよ風が枝葉を揺らす音だけがかすかに耳に入る。

 まるで、空気が止まったかのような錯覚。

 やがて、ぼくはゆっくりと閉じていた目を開けた。

 そしてぼくはミーコを見た。

 その視線に気づいたのか、ミーコもぼくの方を見る。

「ミーコは何を思っていたんだい?」

「えっとね、ありがとうと、ごめんなさい、かな」

「それは、どうして?」

「ご主人様と出会わせてくれて、ありがとう。だけど、そんな事を考えるなんてひどいことだと思うから、ごめんなさい、なの」

 ミーコはあいつに向かってぺこりと頭を下げた。

 そして、ぼくを見上げる。

「ご主人様は?」

「ぼくも、大体同じかな」

 ぼくは軽く頬をかいた。

 空を見上げる。そこにはどこまでも青空が広がっていた。

「ありがとう。ごめんなさい。そして――」

 一瞬、言葉が止まる。

 それは、無意識下のためらいなのだろうか。

 だけど、言わなくてはならない。

 そうしなければ、先には進めないから。

「――さようなら」

「ごしゅ、じん、さま……」

 ミーコはぼくのことを悲しげな目をして見上げていた。

 その目には涙さえ浮かんでいる。

 やがて、目にたまった涙はぽろぽろと零れ落ちていった。

 それを見て、ぼくは、胸の奥がずきりと痛んだ。

「どうして、ミーコが泣くんだい?」

「だって……。ご主人様だって泣いてるよ?」

「え?」

 ぼくはそっと目元に手を当てた。

 その指先は、確かにぬれていた。

「それを見るとね、胸がきゅーっとして、すごく痛いの。すごく、悲しいの」

「ご、ごめん。そうだよね。ぼくが悲しい顔していちゃいけないよね」

 ミーコはぶんぶんと激しく首を横に振った。

「ちがうよ。泣きそうなことが悲しいんじゃないの。泣きたいはずなのに、ご主人様がそれを我慢していることが悲しいの」

「えっ……?」

「無理、しないで。我慢、しないで。わたしはそっちの方がつらいもん」

 その言葉に、ぼくは堰が外れた。

 

 ぼくは、ミーコの胸の中で泣いた。

 あの日と同じ、いや、あの日以上だったかもしれない。

 自分で自分が信じられなかった。

 ミーコの胸の中で、まるで子供のように泣きじゃくるなんて。

 ミーコはいつもの彼女とは思えないほどに大人びた優しい表情を浮かべて、ぼくの背中を優しくさすってくれた。

 もしかしたら、女の子というものは、人間でもネコでも、大きな母性を秘めているものなのかもしれない。

 

 しばらくして、ぼくはミーコを優しく引き離した。

 涙の跡が残っているかもしれない。泣き腫らして目が真っ赤になっているかもしれない。

 それでも、ぼくはとびきりの笑顔を浮かべた。

 迷いのない、真っ直ぐな笑顔を。

 涙はもう十分に流した。

 だから、今は笑おう。

 

 立ち去りかけて、最後に一度だけ振り返った。

 きみがぼくと一緒にいてくれたことに、支えてくれたことに、ありがとう。

 きみがいなくなって、荒れてしまったことに、沈んでしまったことに、ごめんなさい。

 きみのことを忘れはしない。だけど、今は、さようなら。

 勝手な言い分かも知れないけれど、きみは祝福してくれるよね?

 

 

 

 ぼくは手をコートのポケットに入れ、あるものを取り出した。

 そしてぼくはそれ――銀色に輝く指輪をそっとミーコの左手の薬指にはめた。

「ご主人様、これは?」

 ミーコは指輪のはめられた手を物珍しそうに見た。

「それはね、ずっと一緒にいようっていう盟約のしるしだよ」

「にゃあ……そうなんだ……」

 ミーコはしばらくうっとりとして自分の指にはめられた指輪を見ていた。

「ご主人様」

 ミーコはそっと手を差し出してきた。

 ぼくは笑みを浮かべてその手を取る。

「ご主人様、ずっと、ずっと、一緒にいようね」

「そうだね。ずっと一緒にいよう」

 

 

 それは、あんな、とするにはまだ近い、さようならを告げた日のこと。

 そして、愛しい女の子と、ずっとずっと共にあろうと誓った日のこと。

 そんな――そんな日のこと。

 


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