さりとてそんなかぜの強い日
朝はいつものようにやってくる。
ぼくはベッドから身を起こして大きくあくびをした。
隣にミーコはいない。それはそうだ。
そう毎日毎日床を共にしているわけではない。
とはいえ、寝室は同じなのだけれど。
少し広めの寝室に一つだけ置かれた少し大きめのベッド。それからそう離れていないところにしかれた布団が本来のミーコの寝床だ。
今でこそ、その布団で眠る方が少なくなったが、昔、まだ少し距離があった頃は当然のようにそこで寝ていた。
それでもその頃は、一緒の部屋で寝てくれるだけでも喜びに近いものを感じていたのだけれど。
「ミーコ、起きてる?」
ぼくはミーコの寝ている布団に近づくと、ささやくように小さな声で呼びかけた。
まだ寝ているなら、無理に起こしてしまうのもかわいそうだと思ったから。
「うにゃ……」
か細く、声が返ってきた。
ただ、その声の様子が少々気にかかる。
「ミーコ?」
「ご主人様……?」
ミーコの目は開いていた。
だが、どこかとろんとしているようにも感じられるし、その声もやはりどこかおかしい。
ぼくがそっと手を伸ばすと、ミーコはそれを避けるように身をよじった。
「ミーコ、逃げちゃダメ」
「逃げてなんか、ない、もん」
ぼくは再び手を伸ばした。
しかし、やはりミーコはその手をよけようとした。
そんなに、額に手を当てられるのが嫌いなのだろうか。
いつもはそんなそぶりなんて微塵も見せないのに。
まあ、あえて額に手を当てなくても明らかではあるけれど。
不自然に紅潮した顔、あらく熱のこもった息、うつろげな眼。
十中八、九、間違いなく、ミーコは風邪をひいている。
ミーコは立ち上がろうとした。
ふらふらとして足元がおぼつかない。
仕方なくぼくはミーコの肩をおさえて布団に寝かしつけた。
「ミーコ、無理しちゃダメだよ」
その言葉を聞いてなのか、ミーコは異常なほどに首をぶんぶんと横に振った。
「無理なんか、してないもん!」
「いいや、無理してる」
「してないもん!」
ミーコは布団の上でいやいやと暴れだした。
それをぼくがしっかりとおさえつけている。
二人きりだからいいが、誰かに見られたら間違いなく誤解されるような体勢であった。
「風邪の時は無理をしちゃだめだよ」
一瞬、ミーコの動きが止まった。
その目は大きく見開かれている。
「違う……もん。風邪なんかじゃ、ない……もん」
その声はどこか弱々しかった。
ミーコはうつむきがちにぼくの寝間着のすそを強く握る。
「風邪なんかじゃないよ。風邪なんかひかないもん。だからご主人様、お願いだからわたしを捨てないでぇ!」
ミーコの悲痛な叫び。
つまりは、風邪をひいた事が知られたら、捨てられると思ったのか。
ああ、もう。
ぼくは額に手を当てて嘆きたい気分に襲われた。
ミーコにそんなつもりはなかったのだろうが、そんなにぼくは信用がなかったのかとさえ思ってしまう。
どうやらお仕置きが必要らしい。
「ミーコ」
少し強い口調で言う。
ミーコは目に涙を浮かべてぼくを見上げていた。
尻尾はふるふると所在なさげに震えている。
ぼくはミーコの前で座り込むと、ぐっと顔を近づけた。
「お仕置き」
ぼくはそう言って有無を言わさず自分の唇をミーコのそれに重ねた。
そのまま強引に自分の舌をミーコの口内に割り入れる。
ミーコは初めこそ抵抗の意思を見せていたが、すぐにその抵抗は弱くなり、口腔が蹂躙されるのをただ受け入れていた。
やがて、唇が離れる。
その際にミーコが残念そうに「あっ……」ともらしたのをぼくは聞き逃さなかった。
「ご主人様……風邪、うつっちゃうよ」
「いいよ。それならそれで」
そう言ってぼくは立ち上がった。
簡単に服を着替えてから、
「おかゆを作ってきてあげるから、無理しないでちゃんと寝ているんだよ?」
ぼくは寝室を出かけて、振り返ってミーコを見て、言った。
ミーコは弱々しげに、しかし、はっきり「……うん」と言った。
「ばか」
寝室を出て、台所へと向かう途中の廊下で、不意に腹ただしくなってぼくは呟いた。
「ばかだよ。本当に大ばか」
そんな簡単に、ぼくがミーコと離れられるわけがないのに。
まるで信用されてないみたいで、ちょっと悲しかった。
「特に重大な疾患は見られないな。ただの風邪だ。温かくして栄養のあるものでも食べさせればすぐに治るだろ」
聴診器を外して、潤は言った。
「ま、でも確かに素人判断に任せず俺を呼んだのは正しい」
「そう、よかった。それから、ありがとう、潤」
「気にするな。俺とお前との仲だろう。それから御代はいらないぞ。こんな簡単な診察程度でお前から金を取るほどには生活は困ってないからな」
いつもは飄々としている潤だが、こういうときは非常に頼りになる。
「代わりといっちゃ何だが、今度、余裕のあるときにでも酒に付き合え」
潤は屈託のない笑み浮かべた。
「ああ。わかった」
そこでぼくは目を細めて潤を見た。
「でも、今度はミーコにお酒をみだりにのませないでほしいものだけど」
潤は口元を引きつらせ、乾いた笑い声を上げた。
「……善処する」
その一言を残して、潤は帰っていった。
ぬらしたタオルをきゅっと絞って、先ほどまでミーコの額に乗っていたタオルと取り替える。
取り替えたタオルはミーコの熱でぬくもっていた。
「ひんやりしてて、気持ちいい……」
ミーコは目を細めて心地よさそうに呟いた。
しばらくミーコが静かに寝ているのをぼくは見ていた。
両手にすっぽりと収まってしまいそうなほどに、ミーコは小さく見えた。
やはり風邪にかかると不安を感じるものなのかもしれない。
時計を見たら昼近かったので、ぼくは消化の良い昼食をつくりに台所へと向かった。
ミーコは汗をかいていたので、パジャマを着替えさせることにした。
同時に、汗ばんだ身体を拭いてあげることにした。
「うにゃ……なんだか、恥ずかしいよ……」
顔を赤らめながらミーコはぽつりと呟いた。
それはなんというか、『それでも着替えを見られるのは恥ずかしい』というのと同じような心理なのだろうか。
何故かぼくの顔まで赤く熱を持ってしまった。
「そ、それじゃあ、拭くよ」
ぼくはそう宣告することで気持ちを落ち着けて、温かめのお湯でぬらしたタオルをミーコの肌に当てた。
「にゃう……ん」
ぴくっとミーコが反応する。
ぼくは早鐘のように高鳴る心臓の音を聞きながら、ミーコの身体を拭きつづけた。
「あぅん」
冷静に、冷静に。
「ご主人様、そこは、あっ」
冷静に、冷静に、冷静に。
「あっあっあっ、だめ、そこ……」
…………。
お願いですミーコさん。そういう艶っぽい声をあげないでください。
ぼくの理性にも限界があるんですよ?
さすがに今ミーコに無理させるわけにはいかないでしょ?
ぼくは必死に静まれ静まれと自分に言い聞かせてミーコの身体の汗をふき取ることに無事成功した。
「さっぱりして気持ちいい……。ありがとう、ご主人様」
「いえいえどういたしまして」
ミーコの安らいだ顔。
それを見るだけで、ぼくは嬉しさが溢れ出すような心地だった。
その献身的な看病がきいたのか、ミーコの風邪は翌日にはすっかり治っていた。
そして数日後。
「ゴホゴホ。う……」
「ご主人様、大丈夫?」
ミーコは心配そうな顔でベッドの上にいるぼくを見ていた。
そう。今度はぼくが風邪をひいてしまったりするわけで。
ちょっとなさけない。
「今度はわたしがご主人様を看病してあげるからねっ!」
ミーコの笑顔が眩しかった。
ミーコに看病してもらえるのなら、風邪をひくのもたまには悪くないかもしれないと思った。
それは、そんな風邪の強い日のこと。
(おまけ)
「あのね、ご主人様。潤にお電話で『ご主人様の元気がなくなっちゃったんだけど、どうすれば元気になってもらえると思う?』って訊いたら、こうすればいいって教えてくれたよ!」
嬉々としてそう言ったミーコの格好。それは……。
裸エプロンwith黒ニーソックス。
確かに、ある意味元気になりそうだ。
「ねえ、ご主人様、どうかな……」
ミーコはその格好のままでぼくに擦り寄ってきた。
何かがぷつんと音を立てて切れる音が聞こえた気がした。
「……と……」
「と?」
――虎になるんだぁぁぁあああ!
その後、たくさん汗をかいたはずなのに何故かぼくの病状は悪化し、ミーコは慌てていた。