俺は診察室のデスクに座って、診察開始までに生まれた暇な時間をボーっと過ごしていた。
 今俺は、ネコのための医者をやっている。まあ、たまには人間を診ることもあるが。
 一応言っておくが、俺は『ネコ』の医者である。決して『猫』の医者ではない。
 違いが分からない人がいるかもしれないから言っておくが、ネコとは要するにパラレルキャットのことだ。
 人間のようにも見えるが猫の耳があり、尻尾があり、生態もどこか猫な部分を持つ、猫と人の中間にあるような不思議な生き物。
 
「潤様、資料をお持ちいたしました」
「フルールか。そいつはそこに置いといてくれ」
「はい。わかりました」
 先ほど入ってきたナース、彼女もネコである。名前をフルールという。
 あえていうなれば、ネコネコナースというやつだ。
 ……深い意味はない。
 
 ちなみに俺の名は遠坂潤。くどいようだが、職業はネコのお医者さんである。
 
 
 
 
 
診察1回目
診察のお時間

 
 
 
 
 
 都心にすむ人にとっては片田舎とも思われているであろう街に建っている『遠坂パラレルキャット診療所』が俺の仕事場兼自宅である。
 とはいえ、都心にも通じている駅が徒歩10分で辿り着ける位置にあるので、交通はそう不便でもない。
 ちなみに、規模はそんなに大きくはない。
 現在この診療所で働いているのは俺とフルールの二人くらいなものだし。
 その二人で大体まかなえるというくらいである。推して知るべし。
 
 
 一昔前、ネコは中の上や上級家庭、つまりは金持ちがよく飼っていた。
 だからこそ、その頃のネコの医者というのは結構儲かっていたらしい。
 まあ、その弊害として捨てネコとかも結構多かったりしたのだが。
 この診療所は比較的良心的な値段ではあるが、やはり客はそれなりに金を持っている人が多い。
 だからこそ、この診療所もそれなりに利益はあるのだから、なんというか、複雑なような気分ではある。
 どうやら、今現在は一般的な人がネコを連れているのは以前よりは多くなったようではあるが、それでも全体的に見れば少ないと言わざるをえない。
 現在もネコには健康保険がきかないのだから、仕方ないといえば仕方ないのかもしれないが。
 
 
「お大事に」
 俺は診察室からその声を聞いた。
 今、フルールが患者ならぬ患ネコを見送ったところだろう。
 これで、しばらくはゆっくりとしていられるだろう。
 何せ、この診療所が大変に忙しくなるほど患ネコが担ぎこまれたことなんていまだかつてない。
 この街に診療所を構えていることも理由の一つではあるのだろう。
 たくさんのネコを飼っている金持ちなどの類は大抵、都心に近いところに住んでいるものだからだ。
 だったら、都心にあるネコの病院のほうが、近いし設備も整っている。
 その分、値段は一般の人なら「ぼったくりじゃないか?」と言いそうなほどであるのだけれど。
 少なくとも俺は、診察だけであんなに金を取るというのがいまだに信じられない。
 
 待合室からざわめきの音が聞こえてきた。
 患者、患ネコは少ないが、それでも何故か待合室はネコや飼い主のたまり場になってたりする。
 中には普通に老人の語り合いの場になっていたりもする。
 本当はあまりよくないのかもしれないが、患者や患ネコがいればそちらを優先してくれる良識のある人たちばかりなので、強くは言えなかったりする。
 ただ、ここは一応人間も診ている診療所なので、「病気になったので今日は来られないみたいです」とか言われると、ちょっとへこむ。
 お前ら一体ここをどこだと思ってやがると声を大にして言いたくなる。
 そりゃあ、大掛かりな手術とかは人員や機材の面からいっても難しい(というか、まず不可能)ということは認めるが。
 だがまあ、閑古鳥が鳴くほど寂れているよりは、賑わいがあったほうがいいのか、と思ってしまい、少し複雑な気持ちである。
 
 
 
 
 
 そんなある日のこと。
「ひどい雨だな」
「そうですね」
 俺は窓から暗い空を見ていた。
 空から落ちてくる雨の粒が激しく窓を叩いている。
 ここ数日は、こんな天気ばっかりだ。
 
 受付終了の札をかけ、戻ろうとしたときに診療所の扉が叩かれる音が響いた。
「閉めたばっかりなのにな。いったい誰だ?」
 しかし急患という可能性がある以上、そのまま無視するわけにもいかないので、扉を開けてやった。
 その人物を見て、絶句した。
「お前は……!」
 傘を差さなかったのか、あいつはずぶぬれで立っていた。
 いや、それだけだったら俺も驚かなかっただろう。
 驚いていたのは、あいつがネコを抱えていたからだ。
 いや、それだけだったらここまでは驚かなかったかもしれない。
「美衣――」
 俺は反射的に口元をおさえた。
 その声は、いや、声として出ていたかも分からないそれは、幸い、誰にも聞かれることはなかった。
 あいつが自分の身を雨よけにしたからなのか、ネコのほうはあまりぬれていない。
「フルール、タオルを」
「わかりました、潤様」
 フルールは手際よくタオルを持ってくると、あいつに渡した。
 あいつは片手でネコを抱きかかえたままで、もう片方の手で少し乱暴にわしゃわしゃと頭や身体を拭いていた。
 
 
「んで、そのネコ何処からかっさらってきたんだ?」
 その声にすら、あいつは反応しない。
「潤様」
 フルールの厳しい視線。
「……冗談だよ」
「冗談は時と場合を見極めてからにしてください」
 注意された。
 まあ、確かに俺もちょっと場をわきまえなさ過ぎたかもしれない。
 
 あいつの話によると、か細い鳴き声に導かれるように向かった先にネコの姿を見つけたという。
 そして、放っておけなくて、連れ帰ろうとしたようだが、少し弱っていたため、まずここに連れてきたらしい。
 俺は、あらためてそのネコを見た。
 うりふたつ、というわけではなかった。
 だが、そのネコにはどこか美衣の面影がうかがえた。
 それでも何かしらの関係などあるはずがない。
 美衣はれっきとした人間の女の子だったのだから。
 しかし、気のせいという言葉で片付けるには、あまりにも似すぎていた。
「うー、ひはい、ひはいほお」
 ネコがなにやら言ってじたばたしている。
 少し弱っていたためか、その抵抗も弱い。
 しかし、何をそんなにじたばたしているのだろう。
「潤様、潤様!」
 フルールの責めるような声で我に帰る。
 俺はネコのほっぺたを思いっきり伸ばしていたことに気づいた。
「っと、わ、悪い」
 俺はすぐさま手を離した。
 しかし、ネコはいまだに睨みつけるように俺を見ている。
 ……どうやら、美衣のことを引きずっているのは、あいつだけではないらしい。
 
 
 
「とりあえず栄養剤と念のためにワクチンを打っておいたけど、このネコ、どうするつもりだ?」
 簡単に診察をした結果、特に病気などは抱えていなかったが、少し弱っていたため、とりあえず栄養剤とワクチンを打つことにした。
 注射を見て例のネコは怯えていたが、フルールがおさえてくれたおかげもあって、ちゃんと注射を打つことが出来た。
 どうやら完璧に嫌われたようではあるが。
「……ぼくが引き取るよ」
 別段、驚きはしなかった。
 あいつはそう言うだろうと、一種の確信めいたものがすでに存在していたから。
 
 あいつに「このネコは美衣じゃないんだぞ」とは言えなかった。
 言えるはずがない。言える資格もない。
 
「そんで、お前は何か名前があるのか?」
 ネコはつーんとそっぽを向いた。
 俺の顔なんて見やしねえ。
「あなたのお名前は?」
 ネコはふるふると首を横に振った。
「名前がないのですか?」
 今度はこくこくと首を縦に振った。
 俺とフルールとで随分と態度が違うな、このネコ。
「俺が何か名前をつけてやろうか?」
「やめておいた方が賢明です。潤様にネーミングセンスはありません」
 間髪いれずにフルールはそんな事を言ってきた。
 かつてフルールに「じゃあ花子と呼ぶぞ」と言ったのがまだ尾を引いているのか。
 花子という名前の何処が悪い。
 あのときのフルールは本気で俺を切り裂くつもりで爪を振るってきたからな。
「お前が拾ってきて、お前が引き取るつもりなら、お前が名前を付ければいい」
 あいつは、少し考えるそぶりを見せながら、それでもほとんど間を置かずに言った。
「ミーコ、というのはどうだろう」
 
 
 ――みい。美衣。ミイ。
 
 
 その名前が、俺の頭の中をぐるぐると回る。
 おそらく、あいつもそのネコの中に美衣の姿を見出しているのだろう。
 だが、それでもよかった。例えそれがあいつにとって代わりでしかなくても。
 今あいつに必要なのはそんな心のよりどころだと思ったから。
 ネコの医者としてはそんな事を考えるのは問題なのかもしれないけれど。
「随分と月並みな名前だな」
 平然をよそおって俺は返した。
「それが、わたしの名前?」
 あいつは静かに頷いた。
「うにゃ、それじゃあわたしはミーコだね」
 ミーコと名付けられたネコは、かすかに笑った。
 警戒の色はだいぶやわらいだものの、完全に解けているわけではないのが見て取れた。
 だけど、それでも彼女はあいつを受け入れたようだった。
 
 
 
「なあ、フルール」
 あいつらが診療所から去った後で、俺はフルールに声をかけた。
「なんでしょう、潤様」
「俺は、ひどい奴だと思うか?」
 フルールはその問い掛けに首をかしげていた。
「どうして、そんなことを訊くのですか?」
「ちょっと、な……」
 そこで俺は沈黙した。
 あいつはきっと、あのミーコと名付けられたネコに美衣の姿を見ている。
 そして、資格がないとはいえ、俺はそれを咎めはしなかった。
 それは美衣にとっても、ミーコというネコにとっても侮辱になるのではないかと思いながらも。
 俺の沈黙をどういう意味で取ったのか、フルールは口を開いた。
「あの方は、ネコにひどい事をするような方なのですか?」
「まさか!」
 俺はまくし立てるように言った。
「それはない。それだけはない」
 弁護のつもりなんて微塵もない。それは純然たる事実。
「だったら、何も問題はないと思いますけれど」
「ああ、問題はないだろうさ、問題は。だけど、割り切れないものっていうものがあるんだよ。俺たちは生きるのが不器用だから」
「……よく、わかりません」
「いいさ。無理にわかってもらおうとは思わない。ただ、出来ることなら心の片隅にでもとどめておいてくれ」
 いつしか雨はやんでいた。
 しかし、空はまだ厚い雲に覆われている。
 いつしか、その厚い雲が晴れて、月や星がはっきりと見えるようになる時が来るのだろうか?
 俺はそんな事を考えながら、そっとまぶたを閉じた。
 
 
 
 ――それは、少しだけ過去の、彼女とはじめて出会ったときの話。
 
 

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