小さい頃、俺は自分のことを『僕』と呼んでいた。
 いつから、どうして、僕は自分のことを『俺』と呼ぶようになったのだろう。
 そっと目を閉じて、埋もれた記憶を掘り返した。
 
「……ああ」
 僕が屋敷に住むようになった後、要するに母さんが亡くなった後のことだけど、兄さんがひとつの悪戯を思いついたんだ。
 その頃、僕と兄は似通っていたから、髪形など、外見は比較的簡単に似せられた。
 で、残るしゃべり方といくつかの癖を真似させられたことがあった。
 もしかしたら、それが後を引いているのかもしれない。
 
 あの頃は、どうせすぐに成長の具合によって差が出来て、双子ごっこなんてすぐに出来なくなると思っていた。
 だけど、結局のところは、
「少し前に兄貴の代わりに見合いさせられても、最後にばらすまで誰も気づかなかったんだよなぁ」
 思い返して、俺は苦笑した。
 
 
 
 
 
休診日『此方より彼方を想う・後編』

 
 
 
 
 
此方/彼方

 
 
「そういえば、さ」
 不意に、兄さんが口を開いた。
「ミサキさんって、本当に潤の母親なのか?」
「そんなの、当たり前じゃないか!」
 まるでおかあさんを貶されているようで、僕は憤りを含めつつ言った。
 その剣幕に、いささか慌てた様子で、
「あ、いや、そういうつもりじゃなくて、だな」
 兄さんはぶんぶんと手を振っていた。
「そりゃあな、念入りに親子かどうかの検査(DNA鑑定という言葉は出てこなかったらしい)を行ったらしいし、父さんとミサキさんから潤が生まれたってことは間違いないんだろうけど。ただ――」
 兄さんはどうも歯切れが悪かった。
「ただ、ミサキさんって、ネコだろ?」
 僕は兄さんの言葉の意味がよく理解できなくて、首をかしげた。
 兄さんは少し驚いた様子で僕を見ていたが、やがて納得したかのように、ひとつ息をついた。
「そっか。潤は知らないんだな」
「何を?」
「……いや、知らないなら知らないでいいさ。それでも、母親は違っていても、お前がオレの弟であることにかわりはないし」
「だから、どういうこと?」
「なんでもないことだよ。それから、そのことは誰にも言うな。誰にもだ」
 僕はまったく事情がわからなかったけど、その時の兄さんの顔が怖いほどに真剣だったから、僕はただ黙って頷いたのだった。
 
 
 
 
 
 
此方/彼方

 
 
「おはようございます、ですの」
「潤さん、おはようございます」
「言いたいことは色々とあるが、まずはこんな朝っぱらから主従まとめてやってきた理由を三百字以内にまとめてくれ」
「愛ですの」
「愛ですわ」
「四文字ッ!?」
 
 
 
 俺はふたりにお茶を出した。
 決して高級品ではなかったが、それは仕方がないことだと諦めてもらおう。
「で、日比谷のほうは落ち着いたのか?」
「まだ少しはありますが、落ち着いた方ですね」
「そうか。それはよかった」
 謀らずとも日比谷におけるゴタゴタの原因の一端を担ってしまった(兄貴談)身としては、気にはなっていた。
 だからだろうか。その言葉を聞いたとき、ほっとした。
 
 
 
「おや、この鈴は何ですの?」
 シトラスは俺の机の上に置いてあった鈴を手にとっていた。
「!!」
 それを見て、昨日うっかりしまい忘れたことに気づいた。
 以前フルールにも注意されたことだが、時折肝心なところが抜けてしまうのは、本当に、どうにかならないものだろうか。
 シトラスは、上部に三日月の細工がついた鈴をはじいて音を鳴らしていた。
 それを見て、俺は自分のうっかりぶりに頭を痛めながら、注意の言葉をかけた。
「あまり乱暴に扱わないでくれ。それは母さんの形見なんだ」
 
 
 
 
 
 
此方/彼方

 
 
 その日、僕はおかあさんと衝突していた。
 原因は覚えていない。
 何か、子供心ながらにゆずれないものがあったのかもしれないし、単なる反抗期だったのかもしれない。
「潤、いいかげんにしなさい!」
 おかあさんの声が聞こえる。
 風邪気味なのか、せきが混じっている。
 一ヶ月くらい前から微熱と回復を繰り返していた。
 でもそれは、今この場には関係のない話だ。
「ほっといてよ!」
「潤!」
 そして僕は、衝動的に、
「……ああ、そうなんだ」
 言ってはならないことを、
「僕はおかあさんの本当の子供じゃないんだ。そうなんでしょう?」
 言ってしまった。
「だって、僕は――――――!」
 
 
 
 おかあさんは目を見開いていた。
 それを見てすぐに、僕の中で煮えたぎっていた何かが急激に冷やされた。
 だけど、発した言葉はもう取り返しがつかない。
 
「……潤」
 怒ってくれればよかった。
 頬のひとつでも張って『何バカなことを言っているの!』とでも怒鳴ってくれればそれでよかった。
 それでよかったのに。
「ごめん……なさい」
 それなのに、おかあさんはただうつむいて謝罪の言葉を発するだけだった。
 
 違う。
 違う。
 そうじゃないのに。
 怒ればよかったんだ。
 理不尽なのはこっちなんだから、容赦なく怒ってくれてよかったんだ。
 そうすれば僕もきっと目に涙を浮かべながら『ごめんなさい』って謝って、そして、多分終わりに出来たんだ。
 それなのに――!
 
 気づけば、僕はその場から走り去っていた。
 
 
 
 
 
 
 そうしてろくに前を見ずに走った結果、誰かにぶつかった。
 すぐに、それが兄さんであることがわかった。
「いきなりぶつかってきて……、どうしたんだ?」
 立ち上がって、軽く服をはたいて汚れを落としてから、兄さんは話し掛けてきた。
「………………」
 だけど、僕はただ俯いていた。
「まあ、言えないのなら、無理に言う必要もないけどな」
 そんな兄さんの言葉が、ありがたかった。
「……いや、言うよ。兄さんには聞いて欲しい」
 だから、僕は兄さんには言っておこうと思った。
 
 
 
「アホ」
 そしてにべもなく言われた。
「アホはないでしょう、アホは」
「他に言いようがあるか?」
 兄さんは淡々とした口調の中に、怒りを含ませていた。
「お前な、それは言っちゃいけなかったと思うぞ。そりゃミサキさんも泣くわな」
「………………」
 何も、反論は出来ない。
 だって、そのとおりだと思うから。
 
『だって僕は、おかあさんみたいに猫のような耳をしてないし、しっぽだってないもの!』
 思い返せば思い返すほど自己嫌悪にさいなまれる。
 そんなのは、別におかあさんが悪いわけじゃないのに。

 
「んで、どうするんだ?」
「……今は、戻りたくないな。なんとなく、顔向けできないから」
「その気持ちは、わからなくもないが……」
 兄さんはしばらく空を見上げたかと思うと、ぽんと手を打った。
「だったら、気持ちが落ち着くまで屋敷の方ですごすのはどうだ? 食事も用意させるし、オレの部屋で一緒に寝ればいいし」
「え、それは、ありがたいかもしれないけれど……。でも、いいの?」
 僕の脳裏には、僕を、まるで嫌なモノを見るかのような目で見ていた人たちの目が思い浮かぶ。
 それを理解していたのか、
「気にするな。オレが言えば何も言えないだろうし、全員が全員お前を疎んでるわけじゃないんだから」
「それならいいんだけど、でも……」
「ああもう、ごちゃごちゃ言わずさっさとくればよろしい!」
「えっ? あ、ちょっ……。イタ、イタイよ! 強引にしないで、もうちょっと優しく、して……」
 そのまま、有無を言わさず兄さんは僕を引きずるように屋敷へと連れ込んでいった。
 
 どうやら僕は引きずられやすいらしい。
 
 
「さっきのお前の台詞、聞きようによってはちょっとエロイぞ」
 僕は子供だからよくわからない。
 
 
 
 
 
 
 そうして、いつの間にやら僕は兄さんの部屋(と思われる)にいた。
「………………」
 そこは、僕が想像していた以上に広くて、確かに驚きはあったのだけれど、それ以上の感情が僕の中を占めていた。
「気持ちを固めるのはいいけど、逃げ場にはするなよな。まあ、潤なら心配要らないとは思うけど」
 僕は小さく頷いた。
 そのまま、深く思うわけでもなく兄さんと二人で部屋にいると、不意に、ノックもなしにドアが開けられた。
 開け放たれたドアの向こうにいたのは、小さな女の子だった。
 きっと、ドアノブをまわすのも一生懸命だったんだろう。
 かわいいな、と気持ちが和らぐ。
 というのに、兄の顔は何故か引きつっていた。
「兄さん……?」
 僕の声に、我にかえったらしい。
「あ、ああ。紹介しとく。そいつは澄乃っていって、オレの妹だ。潤とは腹違いの兄妹になるな」
「そうなんだ。よろしくね、澄乃ちゃん」
 僕は、母さんがいつも見せてくれたような微笑みを浮かべて妹だという女の子に手を伸ばした。
「あ、バカ! そいつは噛むぞ! こう、手を、がぶーっと!」
 なにやら兄は錯乱している様子だった。
 澄乃ちゃんはとてとてと僕に歩み寄って、おずおずと僕の手を握った。
「……うん。よろしくね、おにいたん」
 少し舌足らずな言葉。
 でも、この娘の年くらいじゃあ仕方ないんだろうと思った。
「澄乃、お前偽者か? っつうかオレのときと態度が違いすぎるだろ!」
 兄はまるで怒鳴り散らすかのように言う。
 それに怯えたのか、澄乃ちゃんは僕の背に隠れるような態勢を取った。
「しゅみやおにいたま、なんだか、こあい……」
「兄さん、澄乃ちゃんが怯えてるじゃないか」
「あのなぁ、そいつがそんなかわいいやつかって――後ろ、後ろー!」
 言われて、後ろを振り返る。
 後ろでは、澄乃ちゃんがふるふると震えていた。
「兄さんが変なこと言うから怖がっちゃってるじゃないか」
 
「だまされてる。きっとだまされてるよ。潤は」
 そんな呟き声が聞こえた気がした。
 
 
 
 
 
 
此方/彼方

 
 
 頭が痛い。
 いや、肉体的には頭痛などないし、健康そのものだと思う。
 あの後、鈴は返してもらって、机の引出しに戻し、念入りに鍵をかけた。
 三つの鈴。
 太陽の細工のついた鈴。月の細工のついた鈴。星の細工のついた鈴。
 昔、母さんからもらったあの鈴は、お守りであると共に、ある種の絆を示すものであったのだろう。
 もっとも、母さんが身につけていた月の細工のついた鈴と、俺が受け取った星の細工のついた鈴は見たことがあるのだが、残る一つ。父さんが持っていると思われる太陽の細工のついた鈴は今だ見たことがなかった。
 もともと父親に会う機会が少なかった上、目に付くところには身につけていなかった。いや、身につけているかどうかは疑わしかった。
 そして、手元にあるのは母さんの形見の鈴一つだけだった。
「あのとき、鈴をなくさなければ、母さんはもう少し生きていられたんだろうか……」
 医師としての自分は「関係ない」と諭す。
 でも、ひとりの『ひと』としての自分は「もしかしたら、ありえたかもしれない」と言うのだ。
 いや、あの状態から全快する、なんていう奇跡はさすがにありえなかっただろうが、それでも、何かが変わっていたのかもしれない。
 そう思ったところで、俺はその思考を打ち切った。
 仮定を想い描くのは自由だろう。
 でも、だからといって何かが変わるわけではないし、むしろ、変えることを夢見ることはあっても、望んではいけないと思う。
 それは、今というこの時まで駆け抜けてきた自分そのものを否定する行為だと思うから。
「あれ……?」
 そこまできて、何かを忘れているような気がした。
 
「モップがけ、大体終わりましたの」
「待合室のお掃除はこれでよいとは思いますが、確認してくれませんか?」
 ……そうでございました。
 俺は、どうして頭が痛いと思っていたのかを思い出した。
 
 令嬢、それ以前にお客さんに清掃してもらっちゃダメだろ、俺。
 
 
 
 
 
 
此方/彼方

 
 
 兄さんによって屋敷に引きずり込まれてから二日が経過した。
 妹であるらしい澄乃ちゃんとは結構親しくなった。
 兄さんはその様子を見てはなにやらぶつぶつと呟いていた。
 澄乃ちゃんと兄は余り仲がよろしくないようだから、それについてだろうか。
 確かに手をがぶっとやっていたし。兄に。
 
 
 
 そして今、兄さんと一緒に外を歩いていた。
 気分転換に見晴らしのいい丘へと連れて行ってくれるということだった。
 そう。僕はまだ、おかあさんに顔を見せられなかった。
 気持ちは大体固まっている、とは思う。
 でも、後一歩がどうしても踏み出せそうになかった。
 そうやって、考え事をしていたからだろうか。
 何かにつまずいた、そう理解したときにはすでに転んでいた。
「潤!?」
 兄さんの声。
「おいおい、大丈夫か?」
 そして、兄さんとは別のひとの声。
 僕は立ち上がり、軽く衣類の汚れをはらう。
 少し膝をすりむいてしまったが、たいした怪我はないようだった。
 そして、先ほど兄さん以外に声をかけてきたひとを見る。
 そのひとは大人だったけれど、心なしか僕たちに似ているような気がした。
「誰?」
 兄さんに問う。
「さあ」そう言って兄さんはそのひとに問いかけた。「あなたは誰です?」
「さて、誰だと思う?」
 そのひとは意地の悪そうな笑みを浮かべて、逆に訊いてきた。
 彼の傍らにいる黒猫は、くぁ、とあくびをしていた。
「はぐらかさないでもらいたい。他人とするにはその顔とかがオレたちに似ているし、親戚だとするにしても、オレはあなたに会った覚えがない」
 それを聞いて、彼はにやりと笑った。
「会ったことがない? それはないな。ただわからないだけだ」
 そう言って彼は僕のほうを見た。
 その僕を見る目が、まるで懐かしいものを見るような、わずかに悲しみを含んだものに見えたのは、僕の気のせいだろうか。
「それから、お前」
「僕、ですか?」
 彼は小さく頷いていた。
「なんか浮かない顔をしているが、誰かとけんかしたなら、謝るなり謝らせるなり、どっちにしろ早く終わらせておいた方がいいぞ」
 どきり、とした。
 どうして彼はそんなことがわかるのだろう。
「――どんなに近くにいると思っても、いついなくなってしまうか、わからないのだからな」
 その言葉には、何か、重みのようなものを感じた。
「おい、それはどういう意味だ!?」
 それを聞いて、兄さんが例の大人のひとにつっかかった。
「いなくなる、ってそんな不吉なことを言うなよな!」
 しかし彼は、そんな兄に動じる様子を見せなかった。
「体験談、だよ。俺の、な」
 彼は自嘲にも似た笑みを浮かべていた。
 そして彼はあらためて兄を見る。
「それにしても、そんなにむきになってつっかかってくるなんて、こいつの事がそんなに大事なんだ?」
 僕を指差して彼は言った。
 それに対し、兄は、
「当たり前だろ。潤はオレにとって大切な弟なんだからな!」
「……そうか」
 そう言って彼は何やら小さく呟いていた。
 その言葉は、兄の耳には届かなかったらしい。
 僕は、彼の放ったその言葉の意味をわかりかねていた。
 
『ありがとう』
 
 彼は確かに、そう呟いていた。
 
 
 
「それじゃ、俺はまだ見てまわりたいものがあるんで失礼するよ」
 そう言って、あのひとは僕たちと別れた。
 どうやらあのひとはもともと、久々に訪れたらしいこの辺りを見てまわるために来たらしく、その途中で僕たちに出会ったということになるのだろう。
 何故か、先ほど彼の傍らにいた黒猫を頭の上に乗せていたのが印象的だった。
「結局、さっきの奴は誰だったんだろうな?」
「わからないよ。でも……」
「でも?」
「ううん、やっぱりなんでもない」
「そうか」
 兄さんはそれ以上追及してはこなかった。
 それが、ありがたいと思った。
 
 
 
 ――でも、あのひとはどこをどう見ても人間なのに、どうして僕は、彼の事を『ネコみたいだ』なんて思ってしまったのだろう。
 
 
 
 
 
 
此方/彼方

 
 
「……えっと」
 どうして、こうなっているのだろう?
 目の前には、何故かナース服に身を包んでいる女性が二人ほど。
 何を言えばいいのか、わからない。
「おふたり方、なにゆえそのような装いを?」
 特にシトラス、そのピンク色したナース服はどこから引っ張り出してきたというのでしょう?
 そんな、あやしいお店にありそうなもの、俺は知らな――
 
 
 
『これを、がんばるフルールさんのプレゼントにしようと思うんだが、どうだ?』
『兄貴、ここは診療所であっていかがわしい店じゃないんだ。そんなどぎついピンク色したあやしいナース服を持ってくるな!』
 
 
 
 ――ああ、兄貴の仕業だ。
 というか、ちゃんと持って帰ったと思ったのに、診療所のどこかに隠していたのか。
 もともと興味はなかったから、兄貴がそんなものを持ってきていたということはフルールにも告げずにそのままほったらかしていたけど。
 
 ……それがわかっていれば、早々に探し出して処分したのに。
 というか、たたまれた状態からあやしかったけど、それが広げられ、あまつさえこうして身につけられているのを見ると、余計にあやしさが増しているような気がしないでもなかった。
 それを考えてみれば、フルールが先にそれを見つけていたら、俺が危なかったかもしれない。
 よし。怪我の功名ということにしておいて、あのナース服は早めに処分しよう。
 俺は強く、強く、誓ったのだった。
 
 
 
 
 
 
此方/彼方

 
 
 そうして、丘へとやって来た。
 僕は鈴ごしに街を見下ろす。
 鈴は微風に揺らされてか、ちり……とかすかに音を奏でていた。
「どうだ? いい眺めだろ?」
「うん……」
 街という風景を俯瞰する。
 通ったことがあるはずの道も、何だか別のもののように見えた。
 ただ、遠く。手を伸ばしても、決して届かないような。
 僕はそっと手を下ろして、目を閉じた。
 
 
 思えば、おかあさんはいつだって優しかった。
 どうして、そんなおかあさんにあんなひどいことを言ってしまったのだろう。
「そう、だね。謝らなくちゃ」
 僕は小さく呟く。
 
 
 
 そんなふうに、思考の海に埋没していたからなのか。
 それとも、時折肝心なところで抜ける性質が災いしたのか。
 無意識に手の力が緩んだらしく、手から鈴がこぼれおちた。
「あっ……!」
 気づいたときにはすでに遅く。
 地面に落ちた鈴は、少しだけ転がって、崖のようになっているところからそのまま転落していった。
「鈴が、お守りの鈴が!」
「ちょっと待て!」
「兄さん、離して!」
「バカ! そこから飛び降りるなんて自殺志望者としか思えないだろうが!」
「でも、鈴が、鈴が……!」
「だから落ち着け。急いで丘を降りて、鈴が落ちていそうな場所まで行けばいいだろ。とりあえず、飛び降りなんて真似はよせ」
 僕はまだあせりがとけていなかったが、それでも兄さんの言うことは確かだと思ったので、頷いた。
 そして、鈴の落ちたと思われる場所まで兄さんと急ぐ。
 
 
 
 だけど、結局、鈴を見つけることは出来なかった。
 
 
 
 
 
 
「………………」
 兄さんの部屋で、僕はただ俯いていた。
 あれから三日。
 時間を見つけては鈴を探しているのだけれど、まったく見つからなかった。
 もしかしたら、誰かが持ち去ってしまったのだろうか。
 そんな、嫌な想像ばかりが頭に思い浮かぶ。
 おかあさんには会っていない。
 会えない。
 鈴をなくしてしまったことを告げられそうにはなかったし、知られるのも怖かったから。
 
 
 
「潤、大変だ!」
 そんな折、兄がこれ以上ないほどに切羽詰った様子でやって来た。
「ミサキさんが、ミサキさんが倒れたって――!」
 
 
 
 
 
 
 ――暗転。
 
 
 
 
 
 
此方/彼方

 
 
 結局、その後、母さんの容態が良くなることはなかった。
 母さんは起き上がることも、ろくに出来なくなっていった。
 鈴をなくしてしまったことなんて、伝えられるはずもなくて。
 
 それなのに、母さんは、最期の最期まで僕に謝りつづけていた。
 
 
 ――ごめんなさい。
 ――ごめんなさい。
 ――ずっと見守ってあげられないお母さんをゆるしてね。
 
 
 バカだな、と今でも思う。
 憤りではなく、貶すわけでもなく、ただ単純に、バカだな、と。
 母さんに落ち度なんてないと思っているし、謝る必要なんてなかったんじゃないかと今でも思っている。
 それとも、親とはそういうものなのだろうか?
 それなら、俺も親になってみればわかるのだろうか?
 
 
 
 そんなことを考えながら『僕/俺』は此方より、遠き彼方へと過ぎ去った母を想う。
 
 
 
 
 
 
此方に生きる

 
 
「……寝てた」
 どうやら、診察室の机でそのまま寝入ってしまっていたらしい。
 身体の節々が少し痛む。
 まだ少しばかりぼやけた視界は、それでも机の上にある水滴をとらえた。
 顔に手をやる。
 そこには、まだ涙の跡が残っていた。
「泣いて、いたのか、俺は」
 呟く。それで、その現実に実感がわいた。
 小さい頃は、今ではたいしたことじゃないと思っているようなことでもちょくちょく泣いていた気がする。
 そのたびに、母のあたたかい手と笑顔があった。
 そんな母親も、今はもういない。
「思えば、それこそがはじまりだったんだろうな」
 そう。きっとそれがはじまり。
 俺が、ネコのお医者さんを志したことの。
 
 
 
 
 
「しっかし、昨日は実に奇異な一日だった……」
 わかりやすく言うと、ナース風味な茜さんとシトラスな一日。
 なんというか、日比谷の家を知っている人なら卒倒しかねなかったのではなかろうか。
 もっとも、この街にそれを知っている人なんてそんなにいるわけもなく、この診療所に限定すればゼロに等しい(自分たち除く)だろう。
 実際、思い切り馴染んでいたし。
 恐るべし、この街。
 
 
 
 俺は立ち上がり、身体を軽くほぐす意味もこめて大きく伸びをした。
 頬を叩いて気合を入れなおす。
「よし! 今日もばっちり気合入れていきますか!」
 今日はフルールが旅行から帰ってくる日だ。
 だから、俺がまずやらねばならないことは、ただ、ひとつ。
 
 
 
 
 
 
 そう。兄貴が持ってきていたあのあやしいナース服を処分することだ。
 俺はとりあえず一斗缶と灯油を探すことにした。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 庭先に一斗缶を置き、燃えろよ燃えろを口ずさみながら、俺は空を見上げた。
 まるで透きとおるような、青空。
 その空の向こう側に、母さんはいるのだろうか。
 
 やがて煙が立ち昇る。
 この煙は、空の向こう側まで、母さんのもとまで辿り着くのだろうか。
 俺はそっと目を閉じて、多分、もう一度だけ泣いた。
 
 

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