幼かった頃、俺は自分の事を『僕』と呼んでいた。
 そして、そばには母親がいた。
 父親とは、ほとんど会わなかったけれど、たまにおかあさんが僕のおとうさんの事を話すときは嬉しそうだった。
 だから、悪いひとではないのかもしれない。そう思っていた。
 家族と断定するには、ちょっと距離が開きすぎてしまっていたけど。
 
 何も知らない子供でいられたのは、いつまでだったのだろう。
 知らなかったということに罪悪感を覚えたのは、いつからだったのだろう。
 それはもう、遥か彼方に過ぎ去って、今となってはわからない。
 ただ、おかあさんの笑顔は、いつだって暖かかった。
 
 
 
 それはきっと、今でも忘れることの出来ない、遠い日のこと。
 まだ何も、本当に何も知らなかった子供の頃のこと。
 
 
 
 
 
休診日『此方より彼方を想う・前編』

 
 
 
 
 
此方/彼方

 
 
「それにしても、どういう風の吹き回しだ?」
 俺は目を細めて、机の上に山を築いている資料とにらめっこしている少女を見やった。
「いえ、深い意味はありませんの。ただ、看護婦の資格をとるのも良いかな、と思っただけですの」
「いや……、それについては個人の自由だけど。何故この診療所にわざわざ来てるんだ?」
 しかもフルールがいないときに。
 もっと正確に言うと、ミーコたちに付き添って二泊三日の旅行へと出かけた、その初日に。
 彼女は「そんな偶然もあるものですのね」とか言っていたが、多分、偶然なんかではないと思う。
 
 ……フルールがいない分、おもいっきり羽目を外せると思ったんだけどなぁ。
 こうなってしまったものは仕方がない。俺はひとつ、ため息をついた。
 
 
 
 
 
 
此方/彼方

 
 
「ん……」
 目を閉じても入ってくる陽光のまぶしさで、僕は目を覚ました。
 寝起きのためかまだ少しおぼつかない足取りで廊下を歩く。
 その途中で、廊下から、いつもお屋敷が目に入った。
 それは遠くにあるはずなのに、それでもその存在を強く主張していた。
 
 
 ――あれが母屋で、自分達が住んでいたのが離れだったと理解したのは、いつのことだったか。
 
 
 台所をのぞきこむ。
 とんとんとん、と軽やかに包丁がまな板を打つ音が聞こえた。
 おかあさんがあさごはんの支度をしているのだと、すぐにわかった。
 僕はとてとてと、おかあさんに歩み寄る。
 おかあさんは僕に気がつくと、手を止め、僕を見た。
「おはよう。潤は早起きさんなのね」
 ふわっ、と。
 おかあさんの手が、僕の頭に触れる。
 それが、やさしくて、あたたかくて、うれしかった。
 
 
 
 
 
 
此方/彼方

 
 
 ぱらり。
 そんな音をたててページがめくられてゆく。
 
「ネコ。正式名称パラレルキャット。
 猫と人との中間にあるような生物。
 人間に近い外見を有しているが、中にはやや体毛が人間よりも濃かったり、猫のごときひげを有していたりする者もたまに存在する。
 だが、彼らを示す一番の特徴はやはり、猫のごとき耳としっぽであろう」
 
 シトラスはその書物を読み上げていた。
 基本知識ばっかりのそれは、必要でないとは言わないが、試験にはあまり関係ないと思う。
 まあ、本人が必要と思っているのならそれでも良いのだろうが。
 それにしても。俺は思う。シトラスはどうしてわざわざ看護婦――正式には看護士なのだろうが――の資格をとろうとしているのだろうか。
 日比谷の家のネコなわけだし、それに伴うかのように品がいい。生活には苦労していないと思うのだが。
 貴族がすすんで農作業をしようとしているようなものだ、と言えばピンとくるかもしれない。
 ………………。
 いや、俺の場合『家』は名高いかもしれないけど、長男じゃないし、それに庶子だし。
 悪かったな。どうせ上品なんかじゃないよ俺は。
 ……誰に言っているのやら。
 
「人間とネコとの交配により子孫をもうけることが可能であることは実証されている。
 その際に生まれる子供は、人間としてかネコとしてかのどちらかの姿を持ち、混じることはない。
 また、人間とネコとの間に生まれた子供は、必ず母親と同じ姿を持って生まれてくる。
 つまり、人間の父親とネコの母親との間に生まれてくる子供は必ずネコの姿を持ち、
 同様に、ネコの父親と人間の母親との間に生まれてくる子供は必ず人間の姿を持つ」
 
 あと、どうでもいいことなんだが。
 どうして、わざわざ声に出して朗読しているのだろう。
 いちいち口出しするべきことじゃないだろうとは思うが、どうにもこうにも気になって仕方がなかった。
 
 
 
 
 
此方/彼方

 
 
 僕は縁側からお屋敷を眺めていた。
 ああいう場所に住んでいるのはどんなひとなんだろう、なんて夢想しながら。
 でも、近寄ったりはしないことにしていた。
 
 以前、お屋敷に近づいたとき――どうして高い塀の内側にお屋敷だけでなく僕の住んでいる家まであるのか、それはわからなかったけれど――そこで働いているらしい人に、まるで嫌なモノを見たとでも言うかのような目で見られたことがあったからだと思う。
 一人や二人じゃなかったし、意味は良くわからなかったけれど、
『清也様に似ているなんて、清也様に対する冒涜だ』
『気味が悪い』
『誠一郎様は心が広すぎます』
 面と向かってではなかったけれど、そんなことを言われたから、気のせいではないと思う。
 
 ……本当に、意味は良くわからなかったけれど。
 
 
 
 だから、お屋敷の方からお屋敷の人が来るなんて、思いもしていなかったわけで。
 
 僕に似た男の子を見て、僕はびくりと震えた。
 なさけない話かもしれないけれど、この頃の僕は、よく人見知りする性質だった。
「えっと、きみは……?」
 相手は何も言わずに僕をどん、と押した。
「!?」
 とっさのことにどうにも出来ず、そのまましりもちをつく。
 彼はそんな僕を見下ろすようにして、びしりと指を突きつけて、
「オレはおまえのにいさんだぞ! いいか、わかったか!」
 なんて、まくし立てるように言って僕の手を取って立たせてくれた。
 あまりに想像をこえたことに、僕はただ目を白黒させるしかなかった。
「よし。これでオレのそんざいはおまえにふかくきざみこまれたはずだ」
 兄だと言ったひとは満足げに頷いた。
「はあ……」
 僕はただあっけにとられるだけだった。
「よし、それじゃあいくぞ!」
「え? え!?」
「きょうだいはいっしょにあそぶものだからな!」
 
 こうして、僕はこの日初めて知った兄に連れまわされたのだった。
 
 ただ、初めの印象が強すぎたせいか、逆に清也兄さんを素直に受け入れられるようになったような気がする。
 これが計算だったら、末恐ろしかったのだろうけど、兄はきっと深く考えず直感で行動を起こしたのだと思う。
 それはそれですごいことなんだろうけれど。
 
 
 
 
 
此方/彼方

 
 
「泊めてください、ですの」
 外も暗くなってきたので、そろそろ帰り時だろうと思っていたときに、突然そんなことを言われた。
 上目遣いで目をうるませているのはテクニックなのか。
 だから俺は仕方なく、にこやかな笑みを浮かべて言った。
「帰れ。必要なら送っていってやるから」
 
「どうしてですの?」
「どうしてもこうしてもないわい! よく知りもしない男ひとりいる場所に泊まりたがるんじゃない!」
「フルールさんと同棲しているじゃありませんの」
「その言い方はやめてくれないか。ちゃんと部屋だって離してあるし、それに……」
「それに?」
「昔は敵意というか、殺気というか、そういうのをよく撒き散らしていたことがあったから余計な劣情をおぼえずにすんだんだよ。で、今は敵意とかそういったものはなくなったけど、まぁ、今さらという感じかな」
「そう、ですの……」
 彼女は顔をそらして「自業自得とはいえ、不憫ですのね」と呟いていた。
 そして、何故か、くす、と笑みを浮かべる。
「ということは、わたしには劣情をおぼえてしまうと判断してもよろしいんですの?」
 ……勘弁してください。
 男とは、そういう生き物なんだ。
 
 
 
 
 
此方/彼方

 
 
「おかあさん、おかあさん」
「あら、どうしたの潤?」
 おかあさんはいつも暖かい表情で迎えてくれた。
「えとね、きのうもにいさんとあそんだんだ。とてもたのしかったよ」
「あらあら。それはよかったわね」
 そう言って、おかあさんは僕の頭をなでてくれた。
 やっぱりそれは、やさしくて、やわらかくて、あたたかかった。
 
 だけど、そのときのおかあさんの表情に翳りが見えたのは、気のせいだったのだろうか。
 
 
 
 
 
 
 それとはまた別の日。
 僕は裏手にある森の奥の平原に寝そべって、空を見上げていた。
 お昼まで時間をつぶしていなさいと言われていたのだけれど、あいにく、これといって何かをする気が起こらなかった。
 
 しょうがないので、お昼にはまだ少し早いけど、戻ることにした。
 庭先には、おかあさんと、兄さんの姿。
 声をかけようとして、戸惑った。
 ふたりの顔は、楽しくお話をしようという雰囲気ではなかったから。
 結果、僕はふたりを隠れて見るような形になってしまった。
「ミサキさん、はじめまして」
「はい。はじめてお目にかかります。清也様」
 
 どうして、おかあさんは兄さんのことを様付けで呼んでいるのだろう。
 僕には、わからなかった。
 それは、僕が子供だったからなのだろうか。
「真紀子様と、清也様たちには、本当に、申し訳ないと……」
 どうしておかあさんが頭を下げるのかがわからない。
「よしてください。ミサキさんが悪いわけじゃない。少なくとも、オレはそう思ってる」
 どうしておかあさんが悲しそうな顔をするのかがわからない。
 どうして兄さんが申し訳なさそうな顔をするのかわからない。
 何もかもが、わから――ない。
 
 
 
 
 
 
此方/彼方

 
 
「ようやく帰ってもらえた……」
 俺は大きくため息をついた。
「しかし、シトラスも余計なことを言ってくれたもんだ」
 最初はどこかしら険悪で、それでも近くにいた少女を思い浮かべる。
「それでも、あんまり実感わかないよなぁ……」
 今まで、ろくにそういうことを意識したことはなかった気がする。
 しなかった、ではなく、できなかった、が正しいのかもしれないが。
 
 母さんに謝罪できなかった負い目。
 与えられた無慈悲な痛み。
 遠坂の家から離れ、この街にやってきたこと。
 健児と美衣と俺。
 一時的と思っていた別離。
 美衣の喪失。
 
 少し、色々とありすぎた。
 それでも、流れる季節を駆け抜けるために、重すぎた荷物の中から、俺はそういった感情にもつを真っ先に置き去りにしてしまったのかもしれない。
 だけど、今それを考えていられるということは、そういうことを考える余裕というものが出来てきた証なのかもしれない。
 俺はそう思うことにした。
「………………」
 俺は鍵を取り出し、引出しの鍵を開ける。
 そこから俺は一つの鈴を取り出した。
 鈴の上部には月――三日月をかたどった細工がついている。
 その鈴にくくりつけられている紐を持って、軽く揺らした。
 ちりん……と涼やかな音がなる。
 その音は、どこかさびしげに聞こえた。
「母さん。俺は――」
 俺は椅子にもたれかかって、そっと目を伏せた。
 
 
 
 
 
 
此方/彼方

 
 
 それは、兄さんと出会う以前の事。
 
「潤、手を出して」
 僕はおかあさんに言われるがままに手を差し出した。
 おかあさんは、握った手を僕の手のひらの前まで持ってくると、手をゆっくりと開いた。
 何かが、僕の手のひらに落ちる。
「これは……?」
 僕はそれに結わえ付けられていた紐を持ち、それを持ち上げた。
 軽く揺れて、ちりんと音がなる。
「これは、なんなの?」
 おかあさんは両手を合わせて、いつものあたたかい笑顔を浮かべていた。
「それはね潤、あなたがいつまでも元気でいられますようにって願いを込めた、お守りの鈴なのよ」
「おまもりの、すず……?」
「そう。お守りの鈴」
「そうなんだ……」
 僕はその鈴をもう一度見やる。
 その、金色に輝いている鈴の上部には、星をかたどった細工が付いていた。
「ありがとう、おかあさん!」
 僕は精一杯の笑顔を浮かべた。
 おかあさんもそれに応えるように顔をほころばせる。
 だから、僕もますます嬉しくなった。
 
 僕はその鈴を指ではじく。
 鈴は、ちりん……と涼しげな音色を奏でていた。
 
 

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