おかしいと思うことや、理不尽だと思うことは、結構身近にありふれているものなのかもしれない。
 例えば、妹が優雅に紅茶をたしなんでいる最中、何故オレは萎縮せねばならないのか、とか。
「それでお兄様、兄さんの様子はいかがでしたか?」
 なんでそんな問い掛けをされなければならないのか、とか。
 潤の事は『兄さん』と呼んで両親が同じ実兄であるオレのことは『お兄様』と呼び分けるのはまだわかる。
 だがそもそも、目の前にいるこの少女は本当に俺と同じ両親から生まれ出でてきたのか、とか。
 確かに、その容姿は母親譲りで美しめだとは思うが。
 オレとしてはむしろ亜空間の歪みから発生したというほうがよほど信憑性があると思うのだが――
「嘘です! お兄様のお茶目な冗談に御座います! だからお放しください! っていうか今頭蓋骨がミシっていったぞミシって!」
 遠坂の兄弟の中ではおそらく最強。
 遠坂家長女、遠坂澄乃に、オレはアイアンクローを喰らっていた。
 
 
 
 ちなみに現在、つまさきしか地面に届いていません。
 
 あ……意識が、とお、く――
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 頭がまだ若干痛む。
 まだミシミシと音を立てているような錯覚さえ覚える。
 というか、口には出していなかったはずなのに何故澄乃はオレの考えていたことを理解できたのだろう?
「声に出していないだけで唇を動かしていましたからね。後は読唇術で判断できます」
 ……との、ことだそうです。
「それで、先ほどの質問にまだ答えてもらっていないのですが」
 オレはため息を一つ。
 やや鋭い目で、軽く睨むように妹を見た。
「別に。大して変わりはしない」
「そうですか」
 これといって感慨もなさげに澄乃は再び紅茶を味わっていた。
 まったく、随分と淡白なものだな。心の中で独りごちる。
 大方、何かけちをつけられる問題が起こることでも期待していたのだろうが。
 何しろ、澄乃は潤がネコの医者になることも、あの街で診療所を開くことも最後の最後まで反対していたのだから。
 それどころか、潤を遠坂の家に閉じ込めることさえ考えていたようなふしさえある。
 確かに、かつてはオレも似たようなことを考えなかったわけではない。
 だけどそれ以上に、潤には自分の決めた道があったのだからその道を貫き通してもらいたいと思ったのも事実。
 遠坂誠一郎――オレたちの父親――も潤が自らの決めた道に進むことを容認、むしろ後押ししようとしてくれていたことが、幸いといえば幸いなのだろう。
「澄乃、お前、今でも潤が『外』にいるのが不満なのか?」
 澄乃は飲み終えたティーカップを静かに置くと、軽く髪をかきあげた。
「当然でしょう。兄さんが『外』にいると思うだけで不安極まりない」
 ああ、まったく、なんて――不快。
 澄乃は潤を何だと思っているのだろうか。
 潤は鳥篭の鳥ではないというのに。
 澄乃なら平気で『どこが違うのですか?』などと平気で訊いてきそうではあるが。
 だが、そんな澄乃の意見も間違っていると言い切ることができないのがまた不快だった。
「だけどな、あいつは、潤はそれでもそれを選んだんだ。澄乃がとやかく言うことじゃない」
「ですから、無理矢理連れ戻すという暴挙にはいたっていないでしょう?」
 ああ、だめだ。
 これ以上ここにいたら澄乃に手をあげてしまいそうだ。
 無論、その後に逆襲を受けぼろぼろにされるというのも分かりきった予定調和ではある。
 オレは居間から立ち去ろうとドアノブに手をかけ、ふと立ち止まって澄乃を見た。
「何か?」
「いや、今まであえて訊かなかったけど、今訊いておく。澄乃、お前……潤が嫌いか?」
 妹は手をおとがいに添え、くすりと笑みをもらし、そして言った。
「そのようなくだらない問い、いまさら答える必要もないでしょう?」
「……ああ、そうだな」
 オレはそれだけを言い残してドアを閉める。
 さすがに、胸に走る嫌悪感を抑えることは出来そうになかった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 生活感のない自室。
 その部屋のベッドに、オレは腰掛けた。
 思えば、この部屋に戻ってくるのも久しぶりな気がする。
 最近は潤に会う時間を捻出するために会社に泊まりこんで仕事をするということも少なくなかった。
 俺は一つため息をついてベッドに寝転がり、天井を見上げた。
 昔は、澄乃だってもっと潤と仲が良かったような気がする。
 そんな澄乃の潤に対する態度が冷たくなっても、一概におかしいとは言い切ることは出来ない。
 そう、無理もない。だって、潤は――
 
 
 
 がつん、と音がした。
 オレが自分の頭を壁にたたきつけた音。
 それから少し遅れて、じわりと鈍い痛みがはしる。
 だが、そんなことはどうでもよかった。
「ふざけるな遠坂清也。あのとき言った言葉は嘘か……!?」
 怒りや憎しみさえこもった、自分自身にかける叱責の声。
 荒く息を吐く。
 そんなミニクイ考えをいまだ抱いているなんて信じたくなくて。
 そんなミニクイジブンがいるなんて、信じたくなくて。
 オレは頭を振った。
 
 先ほどまで抱いていた不快感の正体がわかった。
 いや、ひょっとしたらすでにわかっていて、知らないふりをしていただけかもしれない。
 あんな態度を取る妹に対して、というのも確かにあったのだろう。
 だが、それ以上に、
 
 それにより浮き彫りにされそうになったミニクイジブンを、ひどく、吐き気がするほど嫌悪していた。
 
 潤がいなければ、こんなことで悩むこともなかった。
 潤がいなければ、こんなことで自己嫌悪することもなかった。
 だから、あえて言おう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 潤、きみがいてくれて、よかった。
 
 けんかしたり、いがみあったときもあったけれど。
 それでもおとうとがいて、確かに嬉しかった。嬉しかったんだ。
 それは、今でもやはり、変わることはない。
 
「だから。そう、だからこそ、オレは……」
 オレは、かたく、かたく、そのこぶしを握り締めた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
休診日『そんな兄妹の事情』

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「……ふぅ」
 一つ、息をついて窓から外の空を見上げた。
 漆黒の空にいくつもの星が瞬いている。
 私は不意に、先ほどのお兄様とのやり取りを思い出した。
 
『いや、今まであえて訊かなかったけど、今訊いておく。澄乃、お前……潤が嫌いか?』
『そのようなくだらない問い、いまさら答える必要もないでしょう?』
『……ああ、そうだな』
 
 そう。まったくもってくだらない。
 正直、いまさらそのような問い掛けをするお兄様の気持ちがわからない。
 
 嫌いだなんて、そんなこと、あるはずが、ない。
 兄さんは、今でも私にとって『だいすき』で『たいせつ』なひとに決まっているのだから。
 そんな簡単に、変わるわけが、ない。
 
 
 
 お兄様は、傷を負ったとき、それを普通の生活の中で自然治癒させるべきだと主張していたのに対し、
 私は、その傷を厳重な保護の中でゆっくりと癒すべきだと主張していた。
 違いなど、ただ、それだけにすぎない。
 
 確かに、私の案では根本的な解決は見込めないのかもしれない。
 そういった意味では、多分、お父様やお兄様の方が正しいのだろう。
 だが、それでも。
 それでも私は、あれを忘れることは出来ない。
 
 
 
 それは、根も葉もないうわさ程度のレベル。
 信憑性のないそれは、本人がその場にいなくなって間もなく立ち消えた。
 偶然それを聞かなければ、私は一生知らなかったままだったかもしれない。
 だからといって、それをなかったことになど、できるはずもない。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
   『アイツッテ■■■■ナノ? ヤダー』
      『ジャアモシカシテ■■?』
         『■ンジャエバイイノニ■ナンカ』
            『イエテルイエテル』
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 気がつけば、ぎり……と歯が音を鳴らしていた。
 思い出すだけで虫唾が走る。
 何が違う? 何が違う!? 何が違う!
 兄さんとあいつらとで何が違う?
 
 ああ、でも、確かに違う。
 兄さんは、儚いほどにキレイすぎた。
 だから、あいつらのキタナサに耐えられなかった。
 
 兄さんのキレイなココロがオカサレテ、その目から光が失われていく様など、私は見たくはなかった。
 見たくはなかったが、傷の痛みを押し殺して何事もなかったかのように微笑むのも、私の胸に疼痛をもたらすものでしかなかった。
 
 そして、兄さん一人だけあの街に行かされることになったと知ったとき、私は耳を疑った。
 確かに兄さんのことを考えるならば、あのまま放っておくわけにはいかなかっただろう。
 だけど、その先でも兄さんの心がズタズタにされないなんて保証がどこにある?
 人間なんて、どこに汚さを押し隠しているのかわからないのだから。
 なにより、これでは隔離に他ならないではないか。
 だったらいっそ、これ以上余計な傷を負わぬように遠坂の家の中で護るべきではないのか。
 私はそう思い、兄さんを屋敷の中に留めておくよう懇願したが、聞き入れてはもらえなかった。
 それは非常に残念だったけれど、それも兄さんが学生の間だけのことだ、と自分に言い聞かせ、何とか気持ちをおさえた。
 
 だからこそ、ネコの医者になって、あまつさえあの街で診療所を開きたいと兄さんが言ったとき、私は全力で反対した。
 
 ああ、認めよう。確かに素質はあるかもしれない。きっと兄さん向きだろう。
 だけど、それゆえに危うい。
 何度も何度も私の頭の中で、あのキタナイココロを如実にあらわしていた会話がリフレインされる。
 私にはわかっている。
 兄さんは、周りが思うほど、強くなんて、ない。
 それなのに、弱さを見せないように精一杯強がって、自分の決めた道はどうあろうとも真っ直ぐに走ろうとする。
 そんな兄さんが、私には、とても愛しく感じられるのだ。
 それは決して過去ではない、現在進行形の感情。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 あくる日、とある喫茶店において、私は一人の女性と向かい合っていた。
「この度は清也お兄様が身代わりを立てて見合いから逃げたことを、彼に代わってお詫びいたします。反省させるという意味もこめて、愚兄はこちらで二重十字架の刑に処しておきましたので」
 仮にも遠坂を支える身をそこまで追い込むわけにもいかなかったので、しばらくの間指一本すら動かせず、まともに口も利くことの出来ない状況にするだけにとどめておいた。
 だからこそ、今はどうにか普通の生活や仕事が出来るくらいには回復しているのだが。
「い、いえ、あまり気にしてはおりませんので……」
「そう言っていただけると幸いですが」
 言葉と同時に浮かべたであろう私の笑みに、彼女は萎縮しているようだった。
 いや、あるいは二重十字架の刑がいかなるものであるか想像しているのだろうか。
 どちらであろうとも、私にはたいして関係のないことではあるが。
「ですが、このたび貴女をお呼びたてしたのは、それが目的ではありませんので」
 空気がシンと張りつめる。
「兄さん――遠坂潤について、です。なんでも、あらためて見合いを申し込んだと聞き及んでおりますが」
「ええ。間違いはございませんわ」
 軽く、目を細めて吟味するように彼女を見る。
 空気の流れが止まったような錯覚。
 しかし、それもほんのわずかの間の事。
「兄さんの事実コト、知っているのですか?」
 彼女は静かに頷く。
「ええ。日比谷の家が調べ上げたようですわ」
 すでに推測はあった。ゆえに、別に驚くようなことでもない。
 だが、だからこそ、納得がいかなかった。
「だったら、言われませんでしたか?『彼はやめておけ』と」
「言われましたが、何か?」
 正直に言うと、このとき私は内心驚いていた。
 といっても、それを馬鹿正直に顔に出すような真似はしない。
「日比谷の人形に過ぎなかった貴女がその意に逆らうなんて、随分と驚かれたでしょうね。いえ、あるいは失望でしょうか?」
 揶揄、いや、ともすれば悪意すらこもっていたかもしれないそれを、彼女は平然と受け流していた。
「人形……ええ、人形ですわね。確かにわたくしは何ら疑問を抱くことなく日比谷の者として生きてきました。そんなわたくしを潤様は立った一度の出会いで壊してみせました。ならば、責任を取ってもらってもよいと思いませんか?」
 彼女は余裕を見せるかのように微笑んでいる。
 それは人形としての作った笑みではなく、想いを抱く一人の女としての微笑み。
 ああ、それは間違いないだろう。
 なにしろ、私もかつて鏡の中に同じような雰囲気を纏った顔を見たことがあるのだから。
 それが兄さんのことを頭の中で想い描いていたときであったということは、誰にも言えない秘密である。
 
 だが、あいにくとそれを素直に受け取るほど私はおひとよしなんかじゃない。
 私は決して他の誰にも聞きとがめられぬように――冷酷なようだが、もし聞かれてしまった場合は極秘裏に処理することさえも厭わない――つとめて小さく、それでもって目の前の彼女にだけは伝わるように留意して、それを言った。
「例え兄さんが             だとしても?」
 ほぼ同時期に、不意に巻き起こったざわめきが、その言葉を他の誰かに聞かれるという可能性をさらに打ち消していた。
 
 彼女が知らない可能性もあった。
 だが、おそらくその可能性は低い。
 彼女は『彼はやめておけ』と言われたか、との問いに対して肯定した。
 あのことを知っているわけでもなければ、そこまで反対されることもなかっただろうから。
 仮に日比谷がそれを知っているとして、それを武器にしようとしたり、周りにもらそうとしたりしないのは、利益と比べて、割に合わないほどリスクが大きすぎるからなのだろうけれど。
「ええ。というより例え、などではないのでしょう?」
 果たして、彼女はそれを知っていた。
 だが、だとすれば何故それをそこまであっさりと受け入れられるのか。
 その理由がわからなくて問い掛けてみたら、
「澄乃様もおっしゃっていたでしょう? わたくしは人形でした。ですから、受け入れるのは慣れている、のですわ」
 実に、あっさりと、まるでそれが当たり前とでもいうかのように、彼女は言ってのけた。
 彼女はにこりと笑いかける。
 彼女にしては珍しい、底意地の悪そうな笑み。
「応援してくださいますか?」
「兄さんがそれを望むのであれば」
 嫉妬心はあるのだろう。
 だが、それが兄さんの幸せを潰してしまうようならば、私は、たとえ私自身であっても退けてみせよう。
 あくまでも、それが兄さん自身の幸せに通じるのであれば、であるけれど。
 
「傷痕はかさぶたが覆っている。かさぶたはいつまでたっても頑固ではがれない。だから、かさぶたの下はどうなっているのか、私にはわからない」
 彼女の気持ちの強さのほどはわかった。
 だから、私も最後の確認をしよう。
「心に負ったその傷が癒えなければ、兄さんは誰かに惹かれるということすら希薄かもしれない。例え癒えたとしても、貴女には傾かないかもしれない。それでも、貴女はその想いを貫き通そうというのですか? 茜さん・・・
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 遠坂の屋敷、その居間において、私は片肘をついて、ため息をもらした。
 お兄様が見れば『鬼の霍乱か!?』などと失礼なことを言われそうな気がするが。
 もちろん、その後がどうなるかは予想できているだろうが。
 というより、予想できているだろうに何度も何度もくだらないことを繰り返すお兄様は、学習能力がないのか、それともそういうケがあるのか。
 後者だったらどんな手を使ってでもお兄様を引き摺り下ろして、私が遠坂の実権を握るところまでやってのけてやるが。
 逆にいえば、実際そんなことにはなっていないのだから、まあ、そういうことではあるのだが。
 少し、話がそれた。
 私はもう一つため息をつく。
 ため息をつくと幸せが逃げる、という迷信は、今このときに限り信じないことにした。
「まったく。それにしても本当に罪深い人ですね、兄さんは」
 ぽつり、とそんな言葉をもらしながら、私は紅茶を喉に流し込んだ。
 その味わいは、いつもより少しだけ、ほろ苦く感じられた。
 
 

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