――それはもう、明瞭には思い返すことの出来ない、遠い日のこと――
「フルール、こちらにおいで」
「はい、ご主人様!」
私は喜んでご主人様に駆け寄った。
ご主人様の膝を枕にして寝転がる。
ご主人様のいい香りが私の鼻をくすぐった。
「フルール、あなたは本当にいいこね」
ご主人様が私の頭をなでてくれた。
ご主人様の手は温かくて、ふわふわした気持ちになる。すごく気持ちがいい。
ずっと、こうしていたい。
ずっとこうしてご主人様の温もりに包まれていたい。
私はかつて、それが未来永劫変わらぬものだと信じていた。
休診日『その花にうるおいを』
「ご主人様、何だかお顔の色が良くないみたいですけど、大丈夫ですか?」
「ええ。大丈夫よ、フルール」
思えば、何で私はそんなみえみえの嘘を信じてしまったのか。
いや、ただ、それを信じていた方が私にとっては楽だったから、なのかもしれない。
結局のところ、私もただの利己的なネコだったということだろう。
ご主人様が病に倒れたのはあっという間だった。
そのまま帰らぬ人となってしまったのも、あっという間の事のように感じる。
それが悲しくて、私はしばらく泣いていた。
それからは、何かがぽっかりと抜け落ちたような、そんな思いのまま、ただ惰性的に屋敷にいた気がする。
ご主人様の旦那様は理性もモラルもない人だった。
まるで獲物を見るような目で見回されたのは何回あったか。
それは、ご主人様がいるときからあったが、そのときはさすがにご主人様の手前、何もしてはこなかった。
しかしすでにご主人様はいない。
そのときからだろう。旦那様の私を見る目つきがよりどろどろしたものになったのは。
そしてある日、私は旦那様に襲われた。
必死に抵抗して、どうにか貞操だけは守り通した。
しかし、その際に旦那様を手ひどく傷つけてしまった。
特に、その……、男性の部分、とか。
――もう、ここにはいられない。
そう悟った私は、かつてご主人様と暮らしていた屋敷を出た。
そして、止まっていた一台のトラックの荷台にこっそりと乗った。
やがてそれは、振動と共に動き出す。
何処に行くかはまったくわからなかった。
ただ、あそこに戻る気はなかったし、それならば、何処へ行こうが一緒だろう。
未練はほとんど、というか、まったくといってよいほどなかった。
どうせ、ご主人様はもういないのだから。
自分が今までどんなに満たされた生活を送ってきたのかは、すぐに思い知らされた。
ご主人様は街に繰り出すことが好きで、病に倒れるまで時々商店街などを見て回っていた。
私もそれに付き合っていたから、お金という概念はおぼろげながらも理解していた。
だが、今まではそれはあまり重要ではなかった。
そんな事を知らなくとも、衣食住には困らなかったのだから。
だけど、今はそうはいかない。
特に空腹が思った以上にきつくて、しまいには残飯にまで手を出したことがあった。
その際、自分の縄張りだと主張して襲い掛かってきた野良ネコがいたが、ソレは私の足元に血まみれになって転がっていた。
殺してはいなかったと思う。多分。
私がそんな生活になれるのに、そこまで時間はかからなかった。
もともと、そういう資質があったのかもしれない。
気づいてみれば、『血の悪夢』なんてとんでもない二つ名をいただいていた。
私に襲い掛かってきた野良ネコやなにやらを血みどろの返り討ちにしたのが悪かったのかもしれない。
そうやって、私はいくつもの街を転々と移動しながらただ惰性的に生きつないでいた。
ある日、私はおなかを押さえながら明かりの少ない夜の街並みを歩いていた。
おなかを押さえていたのは、ちょっとしたへまでケガを負ってしまったからだ。
傷が熱を持っている。
半ばぼんやりとしていて、何処を歩いているのかもよくわからない。
幸い、そこに人通りはなかった。
このまま、死んでしまうのだろうか。
ああ、それならそれでいいかもしれない。
そうしたら、ご主人様にも逢えるかもしれないし。
そんなことを、思っていたら、
「おい、お前、ケガしてるのか?」
そんな声が聞こえてきた。
少しぼやけた視界で声の主を探る。
声とその姿から、相手は人間の男だとわかった。
それがわかった途端、私はその相手に敵意を覚えた。
今まで声をかけてきたことのある男性はご主人様の旦那様だった人を含め、すべからくどろどろとした欲望を発していたからだ。
そのくせ、自分が人間だからと優位性を信じてはばからない。
もちろん、そんな輩は次々に痛い目にあわせてやったが。
だから、この、眼前にいる人間も敵に違いない。
私は、徐々に血の抜けていく身体と、ぼんやりし始めた意識の中、そう結論を出した。
「貴方には関係ありません。痛い目にあいたくなかったら早々にこの場から立ち去ってください」
「あのな、そんなケガしてる相手を見捨てていけるわけないだろうが」
ああ、うるさい。
別にそんな理由付けなんてしなくともいいのに。
いらいらする。
私は威嚇の一撃を放った。
相手の目の前すれすれを鋭い爪の軌跡が通る。
「意地を張っていると、ケガでは済みませんよ」
「意地を張ってるのはどっちだ」
それなのに、相手は引き下がろうとはしない。
ああ、本当にいらいらする。
こうしている間も血が流れ落ちていっている。
容赦を忘れてしまいそうなほどに。
私は貫手の形で三箇所に突きを放つ。
当たってもおかしくないと思ったそれは、しかし、容易にかわされてしまった。
次に私は爪を薙いだ。
狙いは相手の首筋。
とにかくもう、目の前にいる相手を黙らせることしか考えられなくなっていた。
首筋にはなった一撃は、かすっただけにとどまる。
そのかすり傷から、つう、と細い赤い線が引かれる。
「ちっ、心臓に頭に喉、今度は頚動脈狙いか。本当に殺す気かよ」
目の前の人間が何か言っている。
……よく、わからない。
おなかの傷からは今も徐々に血が流れ出ている。
「さすがはストラグル・キャット。闘争特化のネコは伊達じゃないみたいだな」
ああ、それは聞いたことがある。
私はそもそも、ネコの中でもそういう種なのだそうだ。
ご主人様はそういうものとは無縁の世界で私を可愛がってくれたから、忘れかけていたけれど。
でも、そんなことはどうでもいい。
普通なら、最初の威嚇で逃げ出すというのに、目の前の人物は逃げようともしない。
なんて、強情。
私はすばやく駆け出した。
おなかからは、じんと痺れるような痛みを感じる。
だが、あえてそれを無視する。
すれ違いざまに皮膚を裂くように、肉を切るように爪を薙ぐ。
しかし、爪から伝わってきたのは肉を裂く感触ではなく、なにか、金属的な感触。
見れば、相手は金属製の何かを握っていて、それで防いだようだった。
その先端は、まるで切り裂くもののように、ぎらりときらめいている。
いや違う。あれはそもそも、モノを切るためのものだ。
「……驚いた。そのとっさの判断、その動き、常人とは思えません。そしてその得物。貴方は切り裂き魔か何かですか?」
「物騒なことを言うな。俺はただの医者だっての」
なるほど。どうやら最近の医者は、街に繰り出すときにも白衣を着けて、その中に刃物を隠し持っているものらしい。
「あ――」
血を失いすぎたからなのか、意識を失いかけたからなのか、ぐらりと傾く。
相手はその隙を逃さなかった。
とん、と首筋に一撃加えられて、私の意識は暗転した。
次に目を覚ましたとき、私はベッドの上にいた。
消毒薬の匂いが鼻につんとくる。
ふと傷を負ったおなかを見てみると、包帯が巻かれて治療されていた。
「ここは……?」
思わず、呟いていた。
ベッドから身を起こして軽くあたりを見回す。
それは、病室のようにも見えた。
壁が白じゃなくてやや緑がかっているのが少々気にかかるところではあるが。
念のため、ちょっと調べてみる。
………………。
どうやら、貞操は無事のようだった。
「ああ、目が覚めたみたいだな」
その声と共に、白衣を着けた男性が入ってきた。
私は敵意を剥き出しにしてキッと相手を睨むが、相手はそれを意に介した様子もない。
「むぅ、一番初めの患者、もしくは患ネコがこんな礼儀知らずじゃ幸先が不安だな」
そういえば、確か、彼は医者だと言っていた気がする。
「別に、助けてほしいなどと言った覚えはありませんが」
「奇遇だな。俺もそんなことは聞いた覚えがない」
彼は、からかうように言った。
私は思わず毒気を抜かれる。
だが、信用したわけではない。
そう思っていると、彼は私の目の前まできて、私の目を真っ直ぐと見た。
「別に“ひと”を信じろとは言わない。だけど今は“俺”を信じろ」
ああ、まったく。私は思った。
――その『目』は、卑怯だ。
そんな目で見られたら、私は首を横にふれそうにないではないか。
「それで、帰る場所が――あったら、あんなぼろぼろの格好で傷を負ったまま歩いちゃいないよなぁ」
そう言い放って、彼はなにやら思案した後、何かを思いついたのか、ぽんと手を叩いた。
そして再び私を見ると、私を指差しながら言った。
「よし、働け」
「は?」
いったいなにをいっているのだろうかめのまえのじんぶつは。
私は思わず目を丸くした。
「さすがに一人だと手が回らないところも多くてな。雑用でもなんでもいいから手伝いがいれば楽だと思っていたんだ」
「ちょ、勝手に決めないでください」
「ん、ああ、心配はいらないぞ。部屋は余ってたし鍵もかかる。あとは三食賄い付きでどうだ?」
だからそういう問題じゃなくて。
……いや、確かに少し心動いてしまったことは否定しませんが。
「私は貴方に飼われるつもりなんてこれっぽっちもありません」
私は前にも増して厳しい視線で彼をねめつける。
――だと、いうのに。
「よし、じゃあそれでいこう」
「はい?」
「俺も『飼う』ってのは好きじゃないからな。雇用ということでどうだ?」
その睨みなどまったく気にする様子もなく、彼はあっさりとそんな事を言ってのけた。
「どちらにしろ、お断りします」
「そうか、それじゃあ仕方ないな」
そう言って、彼は一枚の紙を私に見せた。
「なら、今この場で治療費を払え」
「な……!」
このときはわからなかったが、その紙にかかれている値段は法外なものではなく、むしろ良心的な方だった。
だが、そんなことは関係ない。
そもそも私は、お金など持っていなかったのだから。
「勝手に治療しておいて勝手に治療費を要求するなんて横暴です!」
「ああ。でも治療したのは勝手にだが、治療したことは事実だからな。それに、あそこで見捨てるのも嫌だったし」
彼は実に楽しそうな顔をして、私の目の前で紙をぴらぴらと揺らした。
「お金もない。帰る場所もない。選択肢なんてないと思うがな」
「――――――ッ!」
横暴だ。なんて横暴なのだこの人物は。
ある意味で正論だからこそ余計にそう思える。
頭の中はだんだんと熱を持って――
不意に、彼の首筋についていた傷が目に入った。
――急激に、その熱が冷えていった。
思い出す。
あの時は熱に浮かされるように意識が半ばぼやけていたが、その中で確かに、私は彼を殺そうとさえしていた。
なのに、それなのに、彼の表情、態度、その全てが、そんなことがあったということを微塵も感じさせない。
まったく、本当に、彼はずるいひとだ。
私はひとつため息をついて、覚悟を決めた。
「……わかりました」
まあ、襲い掛かるなんて愚行を犯してきた日には男としての命を終えてもらうだけだし、なんて我ながら物騒なことを思ってみたり。
「何がだ?」
わかっているくせに、彼はそんな事を言う。
その証拠に、ほら、悪戯っ子のような笑みを浮かべているではないか。
「ここで働きますから雇ってください!」
後半は半ば投げやりになって言った。
それなのに、
「ああ。それじゃあこれからよろしく」
なんて、彼は笑顔を浮かべて、手を差し伸べてきた。
私はおずおずと手を伸ばし、その手を握る。
そうして私たちは握手を交わした。
思えばこれが、私たちの始まりだったのだろう。
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