――それはもう、明瞭には思い返すことの出来ない、遠い日のこと――
道すがら、俺は彼女の姿を見かけた。
一人で歩いているようで、他に見知った人は見かけない。
その日出会ったのは偶然だったが、ある種必然的なものを感じた。
「おい、美衣」
俺は呼びかけてみた。
「なに? 潤さん」
少し首をかしげながら、彼女は振り向いて、そう言った。
「何か特別な用事はあるか?」
「別にないけど」
美衣は少し訝しげな目で俺を見ていた。
「そうか」
そんな彼女のことなどお構いなしに言ってやった。
「それなら、少しばかり俺とデートしてくれないか?」
休診日『美衣』
美衣は何故か俺の額に手を当てた。
「潤さん、頭に変な虫でもわいたの?」
そんな事を言うのはこの口かッ!
「いひゃいいひゃい! じゅんひゃんひゃめひぇくだひゃい!」
しばらく美衣の頬を引っ張ってやってから、解放した。
美衣は頬をさすり、恨みがましく俺をねめつける。
「いたた……。もう、潤さんはどうしていつもいつもわたしのほっぺたを引っ張るの?」
「なんとなくだ」
「なんとなく……ねぇ」
美衣の視線が険しさを増した。
それでもあまり怖いとは感じられないが。
そもそも美衣は『怒る』ということに向いていないのだろうと俺は勝手に解釈した。
「デートという言い回しが嫌なら言い方を変えようか。少しばかり付き合ってくれないか?」
「気持ちはありがたいけど潤さんとはお友達ということで」
そっちの意味の『付き合ってくれ』ではないわい!
「いひゃいひゃいひゃい!」
本日二度目。
そのせいか美衣の頬は少しばかり赤くはれていた。
「うー……いたいよぉ」
美衣は涙目になりながら自分の頬をさすっていた。
「潤さん、さっきのはさすがに冗談だったのにほっぺた引っ張るのはひどいよ」
やっぱり冗談だったか。
だとしても、こうなることを予測できただろうにもかかわらず悪ふざけをした美衣も悪い、と思うが。
「でも潤さん、いったい何の用なの?」
「いや、ちょっと、な……」
実のところ、はっきりとした用事があったわけでもなかった。
ただ、なんとなく、なんとなくなのだが、呼びかけないと後悔するような気がしたからだった。
「たいしたことでもないけどな」
「そう」
美衣は何気なくそう言って正面を向いた。
「それにしても、いつもはわたしから声をかけることの方が多いけど、どうして今日に限って声をかけてきたの?」
「なんとなくだ」
「なんとなく、ね」
美衣は興味を失ったかのようにぽつりとそう言うと、空を見上げた。
「潤さんって、答えにつまるといつもそう言うよね」
「いつも……なのか?」
それを聞くと美衣はにやりと笑う。
「ふぅん、潤さん自分の事なのに気づいてなかったんだ」
「自分の事だからこそ、気づかないこともあるだろうさ」
「なるほどねぇ」
美衣はうんうんと一人納得したかのように頷いていた。
喫茶店『朝見屋』にて、俺と美衣は向かい合わせに座っていた。
美衣はパフェをぱくついている。
俺がおごると言ったからか、その顔はいつもよりも嬉々としているようにも見える。
「そういや、今日はあいつと一緒じゃなかったんだな」
「わたしだっていつもいつも一緒にいるわけじゃないよ」
苦笑して美衣は言う。
そんな美衣を見ながら、俺は自分が頼んだコーヒーをすすった。
「そういえば、潤さん」
美衣は半分に減ったパフェをつつきながら俺を見た。
「ん?」
「潤さん、ネコのお医者さんを目指しているんだって?」
「『お医者さん』ね……」
その言い回しに、俺は苦笑する。
「あれ? 違った?」
「いや、違わないが」
美衣は少しだけ、寂しそうな顔をした。
「ということは、遠からずこの街を出ちゃうってことだよね」
「……そうなるな」
ネコのための医者を目指す。そのためには必然的に都心にある大学を目指すことになる。
それはすなわち、二人と離れることにもつながる。
一時的か、それともずっとか、今はまだ判断できないが。
俺はいずれこの街にもどってくるつもりではあるので、一時的に、というほうが確率は高いとは思うのだが。
「寂しく、なるね」
「そう、だな」
しんみりとした空気が流れる。
その空気を振り払うかのように、美衣は突然明るくなったかと思うと、
「なんてね。まだまだ……とは言えないけど、もうちょっと先のこと、いちいち気にしてもしょうがないよね!」
それは、強がりだったのかもしれない。
気がつけば、いつも三人は一緒だったから。
離れてしまうときが来るなんて、いや、離れるときはいつか来るかもしれないけど、それはもっと遠い日のことだと思っていたから。
店から出ると、すでに日は傾き、空は赤く染まっていた。
「それじゃあ、今日はありがとね」
「ああ……」
美衣は元気よく手を振っていた。
別れ際、俺は呼び止めるかのように声をかけた。
「あのさ」
その声に、美衣は足を止め、俺のほうを振り返る。
言うまでもないことだとは、わかっていたけれど。
これだけはどうしても言っておきたかったから。
「あいつのこと、支えてやってくれ」
美衣は柔らかい笑みを浮かべていた。
「言われなくても、わかってるよ」
そう言って、その日、俺と美衣は別れた。
それはまだ、昨日に続く今日も、今日から続く明日も、たいした変遷などないと信じていた日のこと。
あの二人の笑顔がまだまだ続くと、そう信じていられた日のこと。
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