赤ちゃんの鳴き声が響き渡る。
「よしよし。どうしたんですか?」
 必死にあやしているが、泣き止む様子を見せない。
「おしめ……は大丈夫ですね。おなかがすいているのでしょうか?」
 ああ、もう、どうすればいいんですかぁ!?
 そんなふうにわめきだしたい衝動に駆られる。
 が、理性を総動員して自粛した。
 
 申し遅れましたが、私はフルール。
 ネコの看護婦さんであり、最近ネコな助産婦さんも体験し、現在はネコの看護婦兼保育士さんです。
 いえ、単に子供をお預かりしているだけなのですが。
 
 事の発端は、数日前にさかのぼります。
 といっても、長くはなりません。
 要するに、少し遅めの新婚旅行の間、ミーコたちの子供を預かることになっただけの話です。
 というか、時期を逆算すると、結婚式のときはすでにおなかに子供がいた計算になるのですが……どういうことでしょう?
 いったい何時から『そういう』関係だったのか健児さんに(実力行使で)問い詰めたくもありますが、ミーコの手前、やめておくことにします。
 さすがに『妹』の悲しむ顔は見たくないですから。
 
「フルール、まだてこずっているのか?」
「あ、潤様」
 少し申し訳ない気分で潤様を見た。
 潤様の腕の中では、もう一人の子供(双子でした)が安らかに寝息を立てていた。
「代わるからこっちの子をあずかってくれ」
 と、寝付いた子供をあずけられ、代わりに潤様は今だ泣いている子を受け取った。
 潤様は何故か目を閉じて、まるで赤ん坊の声に耳をすませているように見えた。
「おなかがすいているようだな。ミルクの準備を……っと」
 潤様は一度私に子供をあずけ、手早く粉ミルクをほ乳びんに入れ人肌に温められたお湯を注いでミルクをつくると、再び子供を抱きかかえてミルクを与えていた。
 その姿は、本当に子供の親なのではないかと錯覚してしまうほどだった。
 
 ミルクを与え終わった後、潤様は赤ちゃんの背中をさすり、げっぷをさせてから軽くあやしていました。
 すぐに赤ちゃんはきゃっきゃと笑いながら潤様に手を伸ばしています。
「潤様、どうしてそんなすぐわかるのですか?」
 今回だけではない。
 私はどう対処するべきか何度も戸惑っていた。それは仕方のないことだと思います。
 でも潤様は、どうするべきかについては、たいして戸惑っていなかったようにも見えたのですから。
「赤ん坊や子供は、快と不快がはっきりしていて、思考も簡潔だから理解しやすいんだよ」
「そうなのですか」
 潤様の言い分だと、まるで心が読める、みたいな印象を受けますが、ネコのお医者さんはみんなそういうふうに理解することが出来るのでしょうか?
 まあ、実際心が読めるのなら、私の気持ちも気づいているだろうし、単なる錯覚でしょうが。
「すぐにとは言わないが、しっかりしてくれ。フルールだって将来は自分の子供を育てることになるかもしれないんだからな」
 子供……。
 自分の子供……。
 私の子供……。
 私と潤様の子供……。
 
 
 
 にへらっ♪
 
 
 
「あ、フルールが壊れた」
「あーうー?」
「そうだな。しとやかにとは言わないけど、自己抑制はしっかりした方がいい」
「きゃふ」
「ああ。お前たちはきっといい女になるぞ。遺伝と俺が保証する」
「そんな……。潤様ってそんな小さな子供が趣味だったのですか?」
 
「……現実に戻ってきて一言目がそれか?」
 
 
 
 
 
受付終了後
記憶のお時間

 
 
 
 
 
「しかしまぁ、随分と不可思議な夜だこと」
 俺は再び『猫たちの夜』へと迷い込んでいた。
 いや、今回はミケさんに案内されてやってきたようなものだから、迷い込んだというのは正確ではないのかもしれないが。
 ちなみに、ミケさんとは以前この夜の中で出会った猫のことだ。
 俺と行動を共にして、人語を話していたりもした、この街で一番長く生きていると言っていたあの猫である。
 実のところあれ以来さりげなく何度か診療所を訪れたりしている。
 だから、フルールもミケさんのことはよく知っている。というより、この猫に『ミケさん』と名付けたのが他でもないフルールだ。
 だけど、俺は思う。
 フルールは俺にネーミングセンスがないといっていたが、少なくとも、フルールには言われたくない。
 黒猫なのに『ミケさん』という名前をなんのためらいも戸惑いもなく付けてしまったフルールには。
 
 それから、何の反論もしなかったのかは聞くな。
 ミケさんも完全にイヤだったわけじゃないっぽいし、それ以前に選択肢がなかったのだ。
 結局いい名前を思いつかなかったのは事実だし。
 
 猫たちの夜。
 本当に、人の気配などまったくない夜。
 人の気配がまったくない。これは常識ではありえないことだ。人間の常識では。
 ゆえに、人間にとって『これ』は現実でなく幻想。
 ヒトの世界から乖離された、猫とネコの夜というセカイ。
 その存在を知り、またその存在を信じている猫とネコたちだけの楽園。
 だからだろう。おそらくフルールは知らないのだ。だから彼女はこの世界に来られない。
 
 そしてその中で俺という存在は本来ならば異端。
 この世界の存在を聞いていた。信じてもいた。だけど、俺は人間。
 しかし、こうも考えられるのだ。
 この身は、肉体うつわは人間のものだが、なかみとか、そういったものが実はネコのそれなのではないか、と。
 少なくとも、そう考えればつじつまだけはあう。
 
 そして、ミケさんと一緒に、何処へ向かうわけでもなくただ歩いていた。
 その道すがら、おかしな場所へとやって来た、と思った。
 なにやら、空間が歪んでいるようにも見える。
 この街のことは知り尽くしたと思ったのだが、本当に、別世界のようだ。
 いや、実際別世界なのだろう。
 それこそ、人間の常識なんてまったく当てになりそうにはなかった。
 だから、まあ、月の光が青白くても特に驚きはしなかった。
「まさか、これをお目にかけるとは思わなかった」
 ミケさんはその声に少々驚きを含ませていた。
「ミケさんは心当たりがあるのか?」
 一応、とミケさんは答えた。
「それでミケさん、この場所は一体何なんだ?」
 だから、だと思う。何気なく問い掛けてみた。
「人間の言葉で表すなら『記憶の窓』というところかぃ」
「記憶の窓?」
「そう。かつての記憶にある風景を垣間見ることの出来る場所、とでもいうのかね」
「よくわからないな」
 ミケさんは軽く顔をこすった。
「そうだな。例えるなら、S●C版からP●2に移植された某有名RPG(五作目)におけるあのイベントのごとし?」
 微妙にぼかしてあるはずなのに、すごく具体的に思えるのは何故だろう。
 というか、何でミケさんがそれを知っている?
 何故に疑問形?
「もっとも、それが現れるのも、我々の夜の中でもさらに特別。今夜みたいな蒼い月の夜限定だと聞いていたのだが」
 蒼い色をした月を見上げながらミケさんは言った。
 その胸中には、何があるのだろうか。
「とはいえ必ず現れるわけでもなし、しかも猫はそこまで過去に固執する者はほとんどいないから、実際にどういうものか明確に語れる者はいないがね」
 ミケさんは俺を見て、にやりと笑ったように見えた。
「さて、どうする? 一夜限りの夢、ためしてみるかぃ?」
 その言葉に、俺は――
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 気がつけば、俺はいつか見た場所に立っていた。
 少し歩くと、駅前に出た。
 その様相はまるでかの日の再現をしているようだった。
 いや、その言い方は正しくないのかもしれない。
 ミケさんの言うことが正しいとするのなら、俺は過去の記憶の中にいるということになるのだから。
『なるほど。これがおぬしの求めた風景かぃ』
 その声――テレパシーに近いものだ。まぁ、人間の常識に当てはめるのは無粋だろう――に、軽く周りを見回すと、ミケさんの姿があった。
「ミケさん、何故ここに?」
 俺はミケさんを眼前に持ち上げてから問い掛けた。
『なんだ、来たらマズかったのかぃ?』
「いや、別に何も拙いことはないな。ただ、疑問に思っただけだ」
 俺はそっとミケさんを頭に乗せた。
「要するに『これ』は現実なのか、夢のようなものなのか」
『……少し、難しい問いだな』
 そうかもしれない。
 覚めることもなく、それが夢と自覚できない夢は、現実と何の違いがあるというのだろう。
 まあ、俺は哲学者じゃないのでこれ以上深くは考えないが。
『強いて言うなら、現実とは言いがたい。しかし、事実ではある』
「?」
『……わかりやすく言うなら、現実にも影響を与えかねない、夢と現の狭間、ということになるな』
 要するに、擬似的に過去に戻ったようなもの、とでも言うのだろうか。
 まるで魔法みたいだ。
 いろいろな話に出てくる魔法使いの使い魔によく猫が出てくるのは、もしかしたら、そういう理由なのかもしれない。
 
 
 
 それから俺は、その街並みの中を歩いていた。
 ミケさんはいつの間にか俺から降りて、側を歩いている。
 そして、まだ覚えていると思っていたものが、その実、結構記憶が擦り切れていた事に気づいて少し驚いた。
 そうやって自分の記憶を確かめながら歩いていると、不意に前方から、おそらくは俺と逆方向に進んでいたらしい少年が転んでいた。
「おいおい、大丈夫か?」
 放って置けなくて、つい声をかけていた。
 転んでいた少年は立ち上がり、そのまま軽く汚れを払っていた。
 少し膝をすりむいていたが、それでも涙を浮かべないあたり、強くなったもんだと思ってしまった。
 だけど、直接本人に指差してではないとはいえ、「誰?」が最初の言葉なのはどうしたものかと思った。
「あなたは誰です?」
 もう一人の少年――おそらくはさっきの少年の兄弟――があらためて俺に問い掛けてきた。
「さて、誰だと思う?」
「はぐらかさないでもらいたい。他人とするにはその顔とかがオレたちに似ているし、親戚だとするにしても、オレはあなたに会った覚えがない」
「会ったことがない? それはないな。ただわからないだけだ」
 うわ、性悪。
 自分で言っておいてなんだが、性悪。
 そりゃあわかるはずないだろうよ。
 これは兄貴の影響だなうん絶対そうだそういうことにしておこう。
 
 と、そこで。
 唐突に明確に思い出してしまった。
 いじっぱりと後悔と悲しみと。
 だからなのかもしれない。言わずにはいられなかった。
「それから、お前」
 俺は先ほど転んでいた方の少年を見ながら言った。
 彼は少しおどおどしている。
 その様子に、少しだけ、腹が立った。
「僕、ですか?」
 俺は小さく頷いて続けた。
「なんか浮かない顔をしているが、誰かとけんかしたなら、謝るなり謝らせるなり、どっちにしろ早く終わらせておいた方がいいぞ」
 我ながら無茶なこと言っているなーとは思った。
 なにせ、自分では結局できなかったことを言っているのだから。
「――どんなに近くにいると思っても、いついなくなってしまうか、わからないのだからな」
 そう。世の中は結構残酷だ。
 いつまでも一緒にいられたらいいなと思っていたひとを、いつまでも一緒にいさせてはくれない。
 さよならバイバイ。また逢えません。
 そんな別れ方を、数えられるほどかもしれないけど、体験してきた俺だから。
 この何も知りません、な純粋無垢少年に教え込んでやりたかったのだろう。
「おい、それはどういう意味だ!?」
 なんとなく予想できていたというか、もう片方の少年がつっかかってきた。
「いなくなる、ってそんな不吉なことを言うなよな!」
「体験談、だよ。俺の、な」
 そう言って俺は自嘲する。
 多分、それは、やり直したいと思っているわけじゃないけれど。
 それでも、そのことは今でも自己嫌悪の対象なのだから。
「それにしても、そんなにむきになってつっかかってくるなんて、こいつの事がそんなに大事なんだ?」
「当たり前だろ。潤はオレにとって大切な弟なんだからな!」
「……そうか」
 それが嘘でないことはわかっている。
 それが本心からの言葉であることはわかっている。
 だって、俺は。
 
 ――僕は確かに、そんな兄さんに救われていたのだから。
 
 だから、呟いた。
 小さく、小さく、届いてはいないかもしれないけれど、感謝の言葉を。
「ありがとう」と。
 
 
 
 
 
 
 そうして、少年達と別れたあと、街を見回っていた。
 記憶の世界。
 感じているのは、懐古の念というやつだろうか。
 とはいえ、やり直したいとも、とどまりたいとも思ってはいなかった。
 理由は説明する必要もないほどにわかりきっていた。
 過去も大切だけど、それ以上に俺は、現在にあることを望んでいるからだろう。
 そうして、現在という時へのおもいを徐々に強めながら半ば無意識的に道を歩いていた。
 すると、
「にゃっ!」
 頭上から、驚いた様子のミケさんの声が聞こえた。
「……どうしたミケさん」
 俺はミケさんを頭の上から腕の中に移動させた。
「いや、今、何かが毛皮の中にもぐりこんで……」
 ミケさんは自分の手で必死にもぞもぞやっていた。
 俺は苦笑しながらミケさんが探ろうとしていた部分に触れようとした。
 そのとき、『それ』はミケさんから離れ、地面へと落ちて小さく音を立てた。
「って、これ、は……」
 俺は反射的にそれを拾い上げ、上を見上げた。
 そう。ちょうどこの上は――
 
 
 
 
 
 
 それに気づいたところで、全ては白い光に包まれた。
 
 
 
 
 
 
 そうして、俺たちは彼の夜へと戻ってきた。
 いや、すでに東の空は明るくなり始めている。もしかしたら、ちょうど終わってしまったのかもしれない。
 ミケさんはすでに俺から離れ、そのまま街に融けるように立ち去っていた。
 俺はまず深呼吸して、おそるおそる握り締められた手を開いてみた。
 果たして、それは手の中に。
「……なんてこった」
 そりゃあ、見つかろうはずがない。
 この俺が持ち去ってしまっていたのだから。
 だから俺は、あの、かつてあの少年達がいたであろう街の方を向いて頭を下げた。
 
 ――悪い。結局、返せなかった。
 
 
 
 
 
 
◇  ◇  ◇

 
 
 
 
 
 
「潤様、起きてください!」
 フルールは寝ている潤を激しく揺すっていた。
 全八段階中、現在三段階目だ。
 ちなみに、最終段階までいくと目覚めるどころか永久に目覚めなくなる恐れがあるらしいが、いまだそれは実証されていない。
「昨夜は遅かったんだよ……。もう少し寝せれ……」
 そう言って潤は毛布で全身を覆ってしまった。
「ああもうっ! そんな遅くまで一体何をしていたというんですか!?」
 潤は寝ぼけていた。
 もう一度言う。潤はきっと寝ぼけていた。
「強いて言うなら……、ニャンニャンのお時間……」
 ぴくり。
 ぴくぴく。
「そう、ですか……。それはさぞかし楽しかったのでしょうね?」
 いつもなら彼女の放つ瘴気を感じ取り、ここで覚醒して、言い訳するなりなだめすかせるなりしていたのだろう。
 しかし、どうやら本日は危機察知能力がのきなみ低下してしまっていたようだ。
「ああ、かけがえのない時を過ごせた」
 ぶちり、という音が響いた。
 それがどこから響いてきたのかは定かではなかった。
 ただ、その日、最終段階まで逝っても潤はとりあえず永眠しなかったということが実証されたのだった。
 
 
 
 
 
 診療所にある潤の机の鍵がかかった引出しの中。
 その中には、かつて彼らの絆を示していた、月と星の二つの鈴が仲良く寄り添いながら眠っていた。
 
 

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