「潤様、なんだかそわそわしているようにも見えますが」
 なんて、フルールに言われてしまった。
 どうやら、俺は目に見えてそわそわしていたらしい。
「そう見えるんだとしたら、次の休みが待ち遠しく思っているんだろうな」
 フルールは首をかしげる。
「一昨日も昨日も診療所にやってきたのは世間話をするひとばかりで、実質休みと大差ないと思いますが」
 ……あのなフルール、それを言うな。悲しくなるから。
「そうかもしれないけど、って認めてどうする。そうじゃなくて、次の休みには予定があるんでな」
 きっと嬉しく思っていたのだろう。俺は自然と笑みを浮かべた。
 ただ何故か、フルールの目が険しくなって温度が一度か二度は下がったような気がしたが、気のせいだと思いたい。
「それは、女性に会いにゆく用、ですか?」
 どうして彼女は『答えによっては八つ裂きにする気マンマンですよ』と言わんばかりの……というかその心の声がばっちり聞こえてるし。
 もしかしてれべるあっぷした? それとも、身近にいたから同調率が?
 いやまぁ、それはともかく。
 女性、か。確かに違いはあるまい。
「ああ。そうなるな」
 ひくっとフルールの口元がゆがむ。
 室内の温度がさらに一度下がった気がした。
 なんか非常に嫌な予感がするのだが、それ以上フルールの心に踏み入ることがかなわないので、何故こうなっているのかがよくわからない。
 母さんや澄乃――妹は性別が女性なのだから別に間違ってはいないはずだ。
 それにしても、俺が遠坂の家へ顔を出すというのはフルールの逆鱗に触れてしまうようなものなのだろうか。
「で、その女性というのは潤様にとってどんなお方ですか?」
 その声が怒りかなにかで震えているように聞こえるのは、多分気のせいじゃないんだろう。
 個人的には気のせいで済ませてしまいたいのだけれど。
「俺にとって、たいせつなひとたち、かな」
 父親と、母親と、半分しか血がつながっていないとはいえ、兄、それに妹。
 たいせつでないはずがない。
 だから俺はその旨を正直に、かつ単純に、きっぱりと言った。
 そのことに対しての後悔はない。
 ない、のだけれど……。
 
 
 
 なんだか、今すんごくフルールさんが怖いのですが。
 
 
 
 
 
診察9回目
帰郷のお時間

 
 
 
 
 
 最寄りの駅から実に一時間半ほど歩いて、目的の場所に到達した。
 本当だったらタクシーか何かにでも乗ってきた方が早かったし、手間もかからなかっただろう。
 近寄りがたいと感じていたことは否定しない。だが、わざわざ歩いた理由はそれとは別のものだった。
 
 
 駅周辺はかつての記憶とは違っている部分がよく目に付いた。
 記憶とは違うかたち。それは新鮮なように感じられもしたし、さびしいように感じられもした。
 しかし、眼前にある屋敷は、あのときとまったく変わっていないように見えた。
 その中の住人に変わりはあるのだろうか。あるのだろう。
 少なくとも、兄貴はまるで俺とまったく同じに成長しているかのような錯覚さえ与えてきたのだし。
 
 
 正面には、大きな門がそびえていた。
 それはまるで、中と外とを隔離するような障壁。
 子供の頃は、大きくなればその印象が変わるかと思っていたが、現在もあんまり印象が変わったようには思えなかった。
 
 
 
「連絡があったときはまさかとは思ったが、本当に帰ってきたんだな」
 少し意外そうな、兄貴の声。
 まったく忙しくないわけがないだろうに、わざわざ出迎えなんてしてくれた。
「帰ってきた、というのもどうかと思うけどな。結局は日帰りであの街に戻るわけだし」
「それでも、お前がここを故郷だと少しでも思うのなら、ここも故郷だよ」
 兄貴は、俺とここで会ったことが嬉しいとでもいうかのように、言った。
「おかえり、潤」
「……ああ、ただいま。兄貴」
 
 
 
「それにしても、どういう風の吹きまわしなんだか」
 中庭にて、不意に兄貴がそんなことを言ってきた。
「何が?」
「だって、お前、今まで戻ってくる様子なんてそぶりもなかったじゃないか。下手したら一生戻ってこないんじゃないかと思ったぞ」
「それはひどいな」
 言葉とは裏腹に、俺の顔には今笑みが浮かんでいた。
「ま、確かに戻ってこなかったかも、というのは否定できないけどな」
 妾の子。
 屋敷の中において、そんな、汚いものを見るかのような目で見られたことは多々あった。
 子供心ながらもなんとなく理解できてしまうほどだったから、それは相当なものだったのだろう。
 だけど、正当におれを虐げる権利を持っている正妻の子供――兄貴と澄乃が俺を虐げるどころか親しくしてくれたのは、俺にとってどれだけ救いになったのだろう。
 澄乃は怒らせると恐ろしいなんてレベルじゃすまないし、今までの話を聞いた限り、兄貴は澄乃の事を誤解しているふしがあるけれど、澄乃は澄乃で俺を思いやってくれているというのがわかっている。
 ただ、それが嬉しかったのに、いや、むしろそう思えば思うほど何かが重く圧し掛かるのを感じたのも確かだった。
 だから、逃げたのかと問われれば、否定は出来ないだろう。
 それでも、俺がここに戻ってきたのは――
「随分と母さんに逢ってなかった気がするからさ、すねてるんじゃないかと思って」
「ミサキさん、か……」
 兄貴は感慨深そうにその名前を口にした。
 俺の、母親の、名前。
「それでさ、母さんは今何処にいる?」
 兄貴はしばらく俺の顔を見て、ふっと顔を緩めた。
「いつものところに」
 それは、随分と久しぶりなやり取りだったはずなのに、それをつい先日行ったかのような錯覚さえ感じずにはいられなかった。
「そうか。じゃあ、母さんに逢いに行ってくるよ」
 俺はその場を立ち去りかけて足を止め、振り返って兄貴を見た。
 それだけでわかったのか、兄貴はひらひらと手を振ると、
「オレはここで待ってる。終わったら、またここに戻って来いよ」
 俺は何も言わず、頷きだけを返して母さんのいる場所へと向かった。
 
 
 
 
 
 
◇   ◇   ◇

 
 
 
 
 
 
 あれ、あそこにいるのは澄乃か?
 おーい、澄乃、そんなところで何を……って、えらい驚きようだな。どうしたんだ?
 え? 兄さんがここにいることに驚いていたんです、ってそんなに驚かれるようなことか?
 いや、せめて事前に報せを入れてください、って言われても、ちゃんと報告はしたぞ。兄貴に。
 聞いてない? 俺に言われてもな……。
 え、お兄様には天地逆転の刑だって?
 ……兄貴、死ぬなよ。
 それと、誤解なきようあらかじめ言っておくけど、正式に屋敷に戻ってきたわけじゃないから。今日中にあの街に帰るから。
 じゃあせめて屋敷によるだけでもって? 気持ちはありがたいけど、気が引けるんだよな。
 真紀子さん――澄乃たちの母親――に鉢合わせしたら、どうしていいかわからなくなりそうだし。
 ……ああ。彼女のことについては当分、無理かもな。
 それに、今から母さんに逢いに行くところなんだ。
 ………………。
 ああ、そうそう。そのミサキさんのこと。
 そういえば、澄乃は面識なかったっけ? 昔は色々と学ぶことが多かったみたいで屋敷にこもりっきりだったし。
 澄乃が離れに来たのを見たことなんて一度もなかったから、少なくとも、俺がここにいたときは会ってなかったよな。
 今はどうだ? 一度は行ってみたか?
 行ったことがない? まぁ、無理もないな。いや、責めてるわけじゃあないんだ。
 なんなら、一緒に行くか? 母さんだったら拒みはしないだろうし、母さんに澄乃のことを紹介するのもいいだろうし。
 ………………。
 そうか。じゃあ、一緒に行こうか。
 
 
 
 久しぶり、母さん。
 俺が大学に行くようになったころから会いに戻っていなかったような気がするから、えっと……。
 とりあえず、すねないでいただけると助かりマス。
 それにしても、本当に久しぶりだな。母さんは変わってないみたいだけど。
 それとも、そう見えるだけなのかな?
 
 ああ、それでこっちは澄乃っていって、俺の――って、妻じゃねーだろ妻じゃ。
 いきなり何を口走っているか。母さんが信じたらどうするんだ。
 母さんは 単純純粋なんだから。
 ………………。
 そうそう。真紀子さんの娘で、俺にとっては腹違いの妹。
 ま、あんまりそういう言い方は好きじゃないけどな。結局のところ、俺にとって可愛い妹には違いないし。
 なんだよ澄乃、その『嬉しいような、でもちょっぴり悲しいような、どういう表現をするべきかわかりかねます』って顔は。
 ………………。
 うん。兄貴も、澄乃も、最近ほとんど会ってないけど親父、いや、父さんもよくしてくれてるよ。
 それにさ、前にも言ったと思うけど、あの街でも友人が出来たし。
 そう。俺を知ってなお受け入れてくれた親友が。
 それと今、診療所にネコな看護士がいるんだ。
 出会いはちょっとアレだったけど、今ではかけがえのない大切なパートナーになってるんだ。
 ……だからなんだよ澄乃。
 その『自然にそういうことを口に出来るくせに肝心なところを理解できない、罪深いひとなんですから』ってどういう意味だ?
 
 ………………。
 
 あと、さ。
 本当は、謝ろうと思って戻ってきたつもりだったんだけどな。
 でも気が変わった。
 謝らないから。これからもずっと、謝ってなんかやらない。
 
 だから、その代わりに。
 この言葉を母さん、貴女に伝えます。
 
 
 ありがとう。
 悲しいこと、辛いこと、いろいろあったけれど、それでも俺は、貴女の子に生まれて、よかったと思えます。
 だから……ありがとう。おかあさん。
 僕は今、たぶん、きっと、幸せなのかもしれません。
 
 
 
 
 
 
◇   ◇   ◇

 
 
 
 
 
 
 日はすっかり落ちきり、夜も半ば。
 潤はあの街へと帰り、すでにここにはいない。
 だが現在、ある女性のためだけにこしらえられた場所に、本来ならこの時間、その場所にいるはずのない人物が座っていた。
「……ミサキさん」
 その人物はぽつりと呟くようにして語りかける。
「あいつ――潤、明るくなったと思いませんか?」
 これといった返事は返ってこない。
 それでも彼は話すのをやめなかった。
「見た目だけなら、変わったようには見えなかったんですけどね。以前はもっと、空元気のようなものだったんですよ。周りを、いや、オレたちを心配させないようにとのことだと思いますが。……ええ。オレはこれでもあいつの兄貴ですから。それくらいはすぐにわかりましたよ」
 彼は夜空を見上げた。
 空には雲ひとつなく、星が夜空を埋め尽くしていた。
 きっと、明日も晴れることだろう。
「でも今は――そりゃあ、あの頃のようにまで底抜けに明るくなれるとは言いませんけど。あいつも、もう大人ですし――少なくとも、落ち込んでいた頃と比べれば、幾分か元気を取り戻したように思えます。こう言うのもなんですが、この屋敷にいたままじゃそれはかなわないままだったかもしれませんね」
 彼は苦笑した。
 屋敷の中も、その周りの世界も、彼の弟には優しくなかった。
 わかってはいた。当時はそれでも子供に過ぎない彼が、全てをどうにかできるはずがなかったのだと。
 だが。だが、それでも。
 もっと弟のために何かをしてやれたんじゃないだろうか。
 彼は、自問自答する。
 そして、嘲笑う。
 いまさらそんなことを考えて何になる。
 あの頃何も出来なかったのならば、今、それを埋められるだけのことをすればいい。
 もう何の力もない子供じゃないのだから。
「それから、確かに潤は異端かもしれませんが、オレには関係のない話です。たとえ、あなたと『同じ』であったとしても、そう大きく態度を変えるようなことはしなかっただろうと思いますし、ね」
 そのとき、流れ星が夜空を流れるのが見えた。
 そうだ。かつて流れ星に願ったんだ。弟が欲しい、と。
 その翌日に二歳年下の弟がいると教えられたのには結構驚いたけれど。
 母親が違うといわれても大して気になどしなかった。
 願いが叶ったのだ。何を高望みする必要があるだろう。
 彼は実に嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます、ミサキさん。潤と――弟と、逢わせてくれて」
 彼は傍らにそっと花を添えた。
「……また、来ます」
 そう言い残して、彼はその場を後にした。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 遠坂家の敷地内。
 すでに誰もいなくなった、見晴らしのよい小高い丘に立つ『ミサキ』と名が刻まれた墓。
 その傍らに添えられた小さな花が、そよ風にゆらされ、そよいでいた。
 
 



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