「前々から訊きたかったんだけどな」
潤様は私の、主に頭を見て、口を開いた。
一応休診日ということで、現在私は私服姿ではあるが、結局のところやることもなく、こうして診療所にいるのだけれど。
「どうしてそういうカチューシャを好んでつけているんだ?」
潤様は私の頭についたカチューシャを見ながらそんなことを訊いてきた。
本日はわんこさんな耳のカチューシャをつけている。
私にとって、ケモノ耳カチューシャはすでに私服の一部といっても過言ではない。
「嗜好品です。潤様にとってのお酒と似たようなものです。もっとも、これは飲食物ではありませんけど」
だからだろう。私は割とあっさりと返答した。
「よろしかったら、潤様も何かつけてみますか?」
私は冗談交じりにケモノ耳カチューシャコレクションをさしだした。
以前、清也さんのご好意により頂いた品々。
潤様はそっと、ネコの耳のカチューシャを取り、それを身につけていた。
私はてっきり「こんなものつけてられるか」とかそれに類似したことを言うと思っていたので、その行動には正直驚きを隠し切れなかった。
潤様は鏡に映ったネコミミな自分を見て、何故か俯きがちにため息を一つついていた。
「……やっぱり、俺にこんなもの似合わないよな」
私を見て、そんなことを訊いてきた。
その表情は、あまりにも儚く見えた。
「えっ、と」
なんて返答したらよいものか。
「そ、そんなことありませんでございますですよ? 似合、似合ってます」
困惑の果てに、そんなふうに答えていた。
しかもあせっていたからか、思いっきりとちった。
潤様はそれを聞いてだろう。
「そう、か……」
なんて言って、わずかに笑った。
ただ、その笑みが自虐的に見えたのは、私の気のせいだろうか。
「皮肉だな。この『現在』というものは実に皮肉」
「えっ?」
「……いや、なんでもないさ」
診察8回目
夜想のお時間
思えば、それは本当に偶然だったのか。
不意に、俺は夜中に目を覚ました。
眠気は若干ある。だが、そのまま目を閉じても、すぐに眠れる気がしなかった。
「………………」
むくりと身を起こす。
そのままカーテンを少しだけ開けて窓の外を見た。
そこから見える夜空には、幾多もの星が輝いていた。
それがあまりにもきれいだったからなのか、それとも、他に何か理由があったのか。
気がつけば、寝間着を脱ぎ捨てて外行きの服に着替えていた。
明確な理由はわからない。
ただ、そのまま寝てしまうのが非常にもったいなく思えたのは確かだった。
もともとこの街は夜になれば静かになるものだが、今夜はいつもとは少し違う気がした。
その原因はすぐにわかった。
まったく人の気配が感じられないのだ。
俺の記憶と違わぬ並びで、確かに建物は存在していた。
しかし、家々にはどれにも明かりがついている様子はない。
そう、それは、まるで自分ひとりが、知っていた世界から乖離されたような、そんな錯覚さえ受けてしまいそうなほど。
変わらないのは、夜空だけ。
不意に、なぁお、と鳴き声が聞こえた。
声のした方に目を向けてやれば、そこには猫の姿があった。
ネコ――すなわちパラレルキャットと猫との関係は、例えるなら人間と猿の関係に近いものがある。
少なくともヒトの大半はそう思っているし、俺も今のところ否定するつもりはない。
俺はその猫を何気なく拾い上げた。
猫は抵抗する様子を見せない。
「………………」
なんとなく、どこかで見た物語の中にあるように、俺はその猫を頭の上に乗せてみた。
意外とジャストフィット。
少し頭が重く感じられたが、俺にとっては十分に許容範囲内だった。
『乗り心地はいいけどね、変わったことをするもんだぃ』
「?」
どこからか、声が聞こえたような気がした。
『それにしても、めずらしいこともあるもんだぃ。ヒトがこの夜に混じるとは』
……気のせいだろうか。
その“声”は頭の上から聞こえてくるような気がするのだが。
「さっきしゃべってたのはお前か?」
言いながら、俺は頭の上の猫を軽くなでた。
『お前、かぃ。これでもこの街の猫の中では一番長く生きているんだが。もう少しマシな呼び方はないのかぃ?』
……ああ、まったく。
どうやら気のせいではなさそうだった。
「はいはい。悪かったよ」
昔から、俺にはネコや猫限定で心の声を聞くことが出来るという能力があった。
とはいっても、あんまり複雑なものは聞こえていても理解が出来ないのか、せいぜい『苦しい』だの『楽しい』だの『痛い』だのといった、ごくごく単純な断片を理解することが出来る程度のものだったが。
そのことについて以前兄貴は、「同じものを見聞きしてもそこから受ける感銘はそれぞれ違ってしまう。複雑な思考ならなおさらで、それゆえに同調しきることができないのだろう」と言っていた。
あとは「その身は人間のそれであるがゆえに、ネコとのずれが大きいせいもあるんだろう」とも。
ちなみに、その能力のせいで――とも言い切れないのかもしれないが――かつて実に嫌な目にあったこともあったが、やはり、それは今でも決していい思い出には出来そうにない。
とはいえ、そのことがなかったら、この街に来ることもなかったのかもしれないが。
それにしても、ここまではっきりと明確に声がわかる、なんてのは今までの人生の中で初めてじゃないだろうか。
……いや、というか。
俺はいったん猫を持ち上げて顔を向かい合わせてみた。
「ん? どうしたというんだぃ?」
つうかやっぱりこいつ、直にしゃべってやがるし。
道理で普段、心の声を聞くときと感覚が違うと思った。
「いや、猫が普通にしゃべるなんて思わなかったからな」
「それは偏見だというものだと思わないかぃ」
言葉とは裏腹に特に怒っている様子もなく、独特の口調でその猫は言った。
「猫は長く生きると力を持つ。聞いたことがないかぃ?」
「ああ、聞いたことがある」
要するに、その力を持ってすれば、人語を話すことなどたいしたことではないということか。
「もっとも普通の人間は、猫はヒトの言葉をしゃべらないことが常識だと思っているだろうし、必要もないからヒトの言葉を話すなんてしないんだがね」
確かに、それもそうだろう。
「それなら、何で今はそのヒトの言葉をしゃべってるんだ?」
猫は再び俺の頭の上に乗っている。
だから、表情なんてわかるはずもないのだが、なぜか、その猫がにやりと笑みを浮かべているような気がした。
「猫たちの夜にいる。それだけでおぬしは“普通の人間”から逸脱していると思うんだが、どうだぃ?」
……まいった。
確かにそう言われては否定のしようもない。
――猫は夜の護り部。
――人間には窺い知ることの出来ない、猫たちだけの夜がある。
ああ。それは紛れもなく、かつて教えてもらったこと。
あのひとが話してくれた様々なことが、今でも俺の中で息づいている。
そう思うだけで、心の奥底があたたかくなる心地だった。
俺はそっと目を閉じる。
まぶたの裏には、母親の姿が焼きついていた。
「そうだな。今度にでも遠坂の家に帰ってみるか」
俺はそう呟いて、はるか夜空におもいを馳せた。
止まったような静かな夜。
俺は猫と一緒にその下を歩いていた。
ちなみに、今猫は俺の横を歩いている。
そんな折、不意にひとつ、頭をよぎったものがあった。
「そういえば、さきほど、長く生きた猫は力を持つと言ったな」
「ああ。確かに言ったが、それがどうしたぃ?」
「かつて、人間にあこがれた猫が力で以って人間に近い姿になった。それが現在、人間がパラレルキャットと呼ぶものの始祖、という仮定はどうだろう?」
猫は一瞬驚いたような、しかし今はどこか笑っているような顔をしていた。
いや、そんなにはっきりと表情など分かるはずはないのだが、それは伝わってくる感情から容易に想像できた。
「それはいい考えじゃないかぃ。なにより、夢がある」
もっとも、それが真実なら学者連中はひっくり返りそうだが。
猫と歩く。
特に決まった目的地があるわけでもなく、ただ、歩く。
そんな最中、猫が俺に声をかけてきた。
「思っていたのだが、おぬし、もしかして……」
「?」
「いや、なんでも」
そのとき、猫の心の声が流れる。
ああ、やっぱりこの夜は特別らしい。
単純な単語だけでなく、しっかりと理解している自分がいるのがわかるのだから。
「思っているとおり、だろうな」
「そうか。いやむしろそのほうがよほど自然なのだろう」
猫は驚くでもなく、訝しむでもなく、それが当たり前のようにとらえていた。
やまない雨はなく、明けない夜はない。
だけど、せめてこの夜が続く間は、隣にいる一夜の友人と時間を共有し続けていようと思った。
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