その日も診療所は平和だった。
いや、平和のはずだった。
「それで、何故いる兄貴」
「ひどいな。そうオレを邪険にすることもないだろう?」
「いや、だからそうじゃなくて、だな……」
潤は思わず頭を抱えた。
「兄貴は俺よりも忙しい立場にあるんじゃなかったのか?」
「部下もしっかりしているし、少しの間なら大丈夫だろうと思ってな」
「ああそうですかい」
潤は清也に見せつけるように大きくため息をついた。
そして潤は立ち上がって診察室から立ち去ろうとする。
「ちょっと出かけてくる」
「いいのか?」
「そこまで時間はかけないし、フルールもいるから心配は要らないだろ」
そう言って、潤はその場を立ち去った。
少しして入れ替わるようにフルールが診察室に入ってくる。
フルールは清也にお茶を差し出した。
「清也さん、私が言うのもどうかと思いますが、本当にわざわざこちらに来てよろしいのですか?」
清也は頬を掻いて苦笑する。
「絶対大丈夫と胸をはれるわけじゃないけどな。まあ、そこまでやわでもないだろ。親父だっているし」
フルールは柔らかい笑みを浮かべた。
「潤様の事、本当に大切に思っているのですね」
「ああ。あいつは大切な弟だとも」
それに応えるように、清也も微笑みを浮かべる。
と、いきなり清也は悪戯小僧のような目つきをした。
「それで、フルールさんは潤にホの字だったりするわけか?」
「なッ……!」
途端、フルールの顔が赤く染まる。
「ち、違いますよ? わ、私は潤様の事なんて、そんなこと……」
余りにもバレバレな態度に清也は正直笑いを禁じえなかった。
潤の事だけ様付けで呼んでるくせに今更ごまかすことでもないだろう。
清也はそう思ったが、面白いのであえて口には出さなかった。
「ち、違うんですからねッ! ちが――」
慌てたあまり、フルールは足を引っ掛けて転びかけた。
「危ない!」
それを、清也が速やかに抱きとめて倒れることを防いだ。
傍目には、二人が抱き合っているようにも見えた。
「今戻ったぞ……って」
もう一度言おう。
傍目には、二人が抱き合っているように見えたのだ。
しかもフルールは赤く染まっていた顔が今だ元に戻っていない。
「あ……」
それを見た潤がどういう判断を下したかというと、
「そうか、そういう仲だったとは知らなかったな。いや、邪魔して悪かった」
事も無げに、そんな事を言ってのけた。
清也は相手から伝わってくるプルプルとした振動に顔が青ざめた。
彼はすぐ側でおびただしいほどのオーラを感じ取っていた。
そんなことなどつゆしらず、潤はその場から立ち去りかけて、
「それじゃ、お幸せに」
とんでもない爆弾を投下した。
――お前はどうして火にガソリンをそそいでからダイナマイトを放り込むようなことを言うんだ!?
心の中で清也は叫んだ。
すでにフルールとは離れている。
いや、すでに触れることすらかなわなかった。
彼女が纏っているのはすでに瘴気の域だろう。
触れればきっと焼け爛れるに違いない。
「ふふふふふ……。潤様ったらしょうがないお人ですね……」
ゆらり、とフルールは動いた。
清也は目を閉じ、耳をふさいだ。
だから、その後の凄惨な光景も、悲鳴も、何も見なかったし、何も聞かなかった。
診察6回目
見合のお時間
「見合いに興味はないか?」
「のっけから全開だな兄貴」
あれから、兄貴は本当にちょくちょく来ている。
いや、客観的に見れば『たまに』とかいう表現の方が近いのだろうが、以前に比べると訪れる頻度が本当に多くなった。
んで。本日もいけしゃあしゃあと現れた兄貴はいきなりそんな事を訊いてきやがった。
「恋愛結婚と見合い結婚はどっちがいいと思う?」
「一言で答えられる問題でもないだろ、それ」
まあ、個人的に言わせてもらうならば、恋愛結婚は理想的なようにも見える。
だけど、恋人気分のまま夫婦になるのはどうかとも思うが。近頃を鑑みるにそう思わずにはいられない。
人によってその認識は様々だろうが、俺的には、恋人は『近い他人』で、夫婦はれっきとした『家族』だと思っている。
恋人が近い他人ならば、悪い部分はほとんどが見えないだろうし、見せなくてすむ。
どんなに近かろうが他人なのだから。
でも、家族となるとそうはいかないと思うのだ。
自分の悪い部分も見られるだろうし、相手の悪い部分も見てしまうかもしれない。
それを知って、それでもなお許容するというのも時には必要だと思うのだ。
思うに、それが出来ないから、あっさりと離婚できてしまうのではなかろうか。
まぁ、どうしても許容できない点というのもあるだろうから、一概にそうとも言い切れないところではあるが。
少し、話がそれた。
「で、結局のところ兄貴は何が言いたいわけ?」
「ああ、実はな……」
兄貴は神妙な面持ちになって、こほんと軽く咳払いした。
その様子に、俺も真剣になってその続きを待ち――
「見合いをしてくれないか? というかしてくれ、いやむしろ、やれ」
いっそ、さわやかな笑顔でぶん殴ってやろうかと思った。
「兄貴、寝言は寝てから言うものだぞ」
「いや、何も『潤』に見合いをしろと言ってるわけじゃあないんだ。ただ、オレたちってさ、一年二年ほど年が離れているにもかかわらず、顔も似ていて背格好も同じ。人によっては双子とさえ思ってしまうがゆえにだな……」
「ようするに、兄貴の代わりに見合いに出ろと」
「ああ。見合い自体は台無しにしても構わないぞ」
「だったら俺がわざわざ出向かなくても、兄貴が出て直接断ればいいだろうが」
「馬鹿者。相手が美人だったらどうする。オレでは断りきれないかもしれないではないか」
「兄貴、あんたいつか刺されるぞ」
主に俺に。
使うかどうかもわからんメスはそれでもしっかりと研いである。
切れ味は抜群に違いない。
後はアリバイ工作を――って、完全犯罪を計画してどうする。
「とにかくだな、俺は兄貴の代わりに見合いになんか絶対に行かないからな!」
そして、何故か俺はスーツに身を包んで、どう考えても俺には場違いな場所で、見合い相手を待っていた。
「で、どうしてこうなったんだ……?」
とりあえず、回想してみることにした。
俺にこれ以上何を言おうが無理だと判断したのか、次に兄貴はフルールに話し掛けてきた。
「フルールさんの方からもお願いしてもらえないかな?」
「私がそのようなことに賛同するとでもお思いですか?」
フルールの目は冷ややかだった。
というか、冷気さえ感じる。
「いや、別に結婚しろなんて言ってるわけじゃなくて、ただ見合いをしてもらうだけだから……」
当たり前だ。兄貴の代わりで結婚なんぞしてたまるか。
相手くらい自分で選ぶ。
今のところ、その気はまったくないけれど。
「ですが、それで潤様が相手を気に入ってしまったらどうするのですか?」
兄貴はちらりと俺を見る。
「……アレが、そんな器用なやつだと思うか?」
ヒデェ。
「思いませんが、万が一、ということも無きにしも非ずでしょう」
あんたらふたりともヒデェよ。
「もちろんただでとは言わない。これで……」
そういって兄貴が出したのは――
ケモノ耳カチューシャ15種類30個ワンセット。
――俺は、それ以上思い出すのをやめた。
俺はケモノ耳カチューシャにも劣る存在なのだろうか。
そう思うと何故か涙が出てきた。
潤ちん強い子……、泣いちゃダメ……。
とりあえず、そう自分に言い聞かせてみる。
信じてたはずの相手に裏切られるって、軋むほどに心が痛いんだなぁ。
そんなことを、俺は思ったのだった。
やって来た見合い相手は一目でお嬢様とわかるようなオーラをかもし出していた。
外見は文句のないほど綺麗には見えた。
これで醜いという奴がいたら、そいつはきっと特殊な美的感覚の持ち主に違いない。
なんというか、ますます俺が場違いに思えてならなかった。
まあ、向こうは俺を兄貴だと思っているのだろうし、俺も庶子とはいえ、まかりなりにも遠坂ではあるのだが。
一応マニュアルは頭の中に叩き込んである。
基本的な質問なら困ることはない。
もっとも、それでうまくいかれたら困るので、どこでイレギュラーをいれるかが問題ではあるが。
いっそ、相手に想いを抱いている相手がいて、そいつが乱入する、とかいうことでもあればいいのに。
それなら理由にもなるだろうし、なにより俺が見てて面白い。
閑話休題して、主観を見合い相手の方に戻す。
彼女はネコを連れていた。
その礼儀正しさを見るに、きっと随分としつけられたのだろう。
血統のせいもあるのだろうが、それだけではここまでにはなるまい。
「ん……?」
呟く。
何か、違和感を覚えた気がした。
「こんにちは。お会いできて光栄です」
「あ……、こちらこそ」
一瞬戸惑ったものの、即座に礼を返した。
「自己紹介がまだでしたね。わたくしは日比谷茜と申します。以後よろしくお願いしますわ」
彼女はスカートの裾を軽く持ち上げ一礼した。
「はい。それで私は――」
「清也様でしょう? 貴方様のお名前はあちこちに響き渡っておりますので」
と、茜さんの声により自己紹介はさえぎられた。
内心吐き気と恥ずかしさでいっぱいである。
何が悲しくて自分の事を『私』などと言っているのだろうか俺は。
見合いは当り障りなく進行していった。
いつ、どうやって断るかをはかりかねていた。
ただ、なんとなくわかったのだが、茜さんが見ているのは当然俺ではなく、兄貴でもなくて『遠坂の家』そのものだということだ。
別にそれをただ一方的に悪いと言うつもりはない。
もとより、この見合いはそのために用意されたものなのだろうし。
兄貴、あんたが逃げたかったわけ、ちょっとはわかるような気はするけどさ。
それを弟に押し付けるのは、やっぱりひどいと思うんだが。
つい、俺は茜さんの隣に立っているネコに目が行った。
彼女もそれに気づいたのか、
「わたくしのネコに興味がおありですか?」
「まあ、ないわけでは、ないですけれど」
何か気になる。
まるで、魚の骨が喉につかえているようなもどかしい気分。
「ご紹介いたしますわ。この娘はシトラスと申しますの。小さい頃から一緒でしたのよ」
そのシトラスと呼ばれたネコはなにやら軽く咳き込んでいた。
「シトラスはどうやら風邪気味みたいで……」
ああ、なんてことだ。
俺は心の中だけで軽く舌打ちする。
普段ならもっと早く気づいただろうに、どうして今の今まで気づかなかったのか。
どうやら俺自身、はじめてのお見合いに思いのほか緊張していたらしい。
俺は立ち上がり、シトラスの手を取った。
その思いもがけない行動に茜さんは目を丸くした。
周りも心なしかざわめいている気がする。
が、そんなことは関係ない。
「シトラス、とかいったな。今すぐ病院へ行くぞ!」
「え、あ……?」
突然の事でシトラスは戸惑っているようだった。
「す、清也様?」
「悪いが俺は清也兄貴じゃない。その代理としてよこされた不出来な弟だよ」
茜さんの顔が驚きに染まる。
でもまあ、そんなことはどうでもいい。
今は俺の、ネコの医者としての部分が思いきり警鐘を鳴らしている。
「さ、いいから行くぞ!」
「ちょっとお待ちなさい、わたくしのシトラスに勝手なことは――」
「うるさい! シトラスの事が本当に大事なら黙って従え!」
その一言に、それ以上茜さんは何も言えなくなってしまったようだった。
危惧していた通り、シトラスはPCD−Uというネコの病気に犯されていた。
初期症状が風邪に似ているそれは、病状が進行すると心不全などの病状を併発し、最後には死にいたる厄介な病気だった。
幸い、まだ病状が初期の状態だったことと、適切な処置を受けたおかげで、彼女は無事、元気を取り戻すことができたようだった。
「あー、まったくもう」
俺は診察室にある椅子に深くもたれかかって天を仰いだ。
結局、あの見合いはうやむやのうちに終わってしまった。
不謹慎極まりないが、シトラスにありがとうを言っておこう。無論、心の中で。
「お疲れ様でした」
そう言ってフルールは俺に茶を渡してくれた。
その茶をすすって、俺は思う。
「見合いはもうこりごりだ」
こきこきと頚椎を鳴らす。
あんな堅苦しいのは俺の性にあわない。
俺はこうして、この街で、ネコ医者をやっている方が性にあっている。
そう思うと同時に、少しだけ、兄貴の大変さが実感できた気がした。
今なら、兄貴に素直に感謝できると思った。
……と、いうのに。
「潤、見合いの話が来たんだが」
訪れて早々そんな話をするのはやめてほしかった。
前言撤回しようか本気で迷ったぞ。
「悪いけど、もう二度と兄貴の代わりを務めるのはごめんだからな」
「いや、今回はお前あてだが」
時間が、止まった気がした。
「はぁ!?」
「ど、どういうことですか!?」
何故か俺より困惑するフルール。
「ほら、確か茜さんとか言ったか? その人なんだが、潤の強い意志と行動力にくらっときたらしい」
「……それで?」
我ながら、随分と冷ややかな声を出しているな、と思う。
「それで、もっと、お互いのことをよく知りたい、と――」
そこで兄貴の言葉が止まった。
その頬には冷や汗が流れている。
それも無理はないだろう。
なぜならば、俺は右手の指の間に合計四本ものメスをはさみこんで、微笑みながら兄貴を見据えているのだから。
兄貴は所在なさげにきょろきょろと目を動かし、フルールを見た。
「あ、フルールさんからも何か言って――」
「お断りします」
フルールは微笑みながら、その爪を輝かせていた。
戻る