「潤様、潤様」
 私は診察室のデスクで寝入ってしまった潤様を揺すって起こした。
「ん……ああ、フルールか」
「『ああ、フルールか』じゃありません! まだ本日の受付は終了していないのですから勝手に寝ないでください」
 確かにそれだけの暇……コホン、余裕が生まれるのは致し方ないですけれども。
「悪い。つい、ウトウトとして、な」
「……まったく」
 私は軽く頬を膨らませて『私、怒ってます』なポーズをとる。
 それを解いてから私は一つの疑問をぶつけることにする。
「そういえば潤様」
「なんだ?」
「潤様、寝ている間ってキスされても気づかないと聞きますけど、本当だと思いますか?」
「俺がそんなこと知ってると思うか?」
 私は首を横に振った。
「いえ、潤様は鈍感ですから知らなくても無理はないかと」
「その発言、一部気にかかるけどまあいい。わかってるなら訊くなよ」
「そうですね。申し訳ありませんでした」
 私は一礼すると、踵を返して潤様のいる診察室から出た。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 ――どうやら、あながち嘘でもないらしい。
 
 私はそっと、自分の唇を指でなぞった。
 
 
 
 
 
診察5回目
兄弟のお時間

 
 
 
 
 
 その日は、やはりいつもと変わらず余裕の多い日だった。
 いつもと違うことは、受付終了も近い頃に、
「潤はいるか?」
 そんな声と共にやって来た。
 
 
 
 
 
 
「潤様に何か御用で――」
 相手をするために受付へとやって来たフルールは言葉を失う。
 端的に言えば、そっくりだったのだ。
 その顔が、その背が、今から考えてみると、まったく同じではないものの、その声も。
 目の前の光景にフルールは硬直する。
 それからたっぷり十秒は経ったであろう頃に、
 
 
 彼女が放ったとは思えない叫び声が響き渡った。
 
 
「フルール、何だ今の声は――って」
 少女の叫び声に意外さを感じつつも顔を出した潤は、すぐにその原因を知った。
「潤、久しぶりだな」
 で、その原因である当人はその自覚もなく片手をあげて潤に声をかける。
「ああ、確かに久しぶりかもな」
 潤はそれをうんざりしたような顔で見て、肩をすくめた。
「それで、何の用だよ……兄貴」
 
 
 
 
 
 
 潤が『兄貴』と呼んだ人物は診察室にて潤と向かい合っていた。
 すでに受付は終了しており、もはや急患でもない限り、患ネコは来ない。
 フルールには悪いと思ったのだが、今は席を外してもらっている。
 潤は椅子に座って憮然とした面持ちで兄を見据え、
 兄は診察用のベッドに腰掛けて、共にフルールが淹れてくれたお茶をすすっていた。
「今月の返済予定はまだ先だと思ったが」
「そんなことのために来るわけないだろう。というか、その返済自体必要ないものだというのに」
 かつて、潤が診療所を構えるまでこの街に診療所はなかった。
 もちろん、そんなものがいきなりぽんと現れるはずもない。
 当然、診療所を構えるにはそれ相応のお金がかかったはずだった。
 そして、そのためのお金を出したのが、目の前にいる兄であり、父親であった。
 彼らにしてみればそれは『あげた』つもりであったのだが、潤当人がそれを拒否した。
 診療所を築くのに使われたお金はあくまでも『借りた』ものとして、潤は少しずつ返済して今にいたっている。
「必要なくはないさ」
 潤はそっと目を伏せ、それから真っ直ぐに兄の目を見据えて言った。
「親父や清也(すみや)兄貴の心遣いは嬉しいと思ってる。でも、親父や兄貴の力じゃなくて、出来うる限り俺自身の力でやりたいんだ。悪いけど、こればかりは他の誰にもゆずるわけにはいかない」
 その目には、自分の道を貫きたいという強い意志が垣間見えた。
「頑固者め」
 清也は呆れたような、納得したような面持ちで呟いた。
「まったく、誰に似たのやら」
「決まってる」
 潤は目を細めて此処ではないどこかを見ているようだった。
「母さんにだろう」
 
 
 
 
 
 
「そういえば、昔からネコの医者になると言っていたが、こうしてあらためて見てみると、そのまま目標を貫いたんだなということがよくわかる」
 そう言って、清也は小さく笑った。
「オレは半ば将来が決まっていたようなものだったからな。正直言えば、お前がうらやましいよ」
 そこで、急に清也の顔が真剣なものに変わる。
 その目は鋭く細められて、真実を見透かそうとしているようにも見えた。
「でも、そのネコの医者を目指した理由、それは……つぐないのつもり、だったのだろう?」
「違う!!」
 診療所内に潤の大きな声が響き渡った。
 壁はびりびりと振動している。
 それがおさまった頃に、潤はひとつ、大きなため息をついた。
「……とは、いえないんだろうな」
 潤は椅子の背もたれに深く体をあずけた。
「いや、認める。確かに初めの動機はそれだったんだろう」
 一番初めの動機は、同級生のマドンナも、彼女が飼っていた子ネコも、あいつも美衣も関係なくて。
 ただ、謝りたかっただけだったんだろう。
 素直じゃなくて、謝れなくて、もう二度と謝ることができなくなって。
 謝罪の代償行為と、自分がネコの医者だったらもしかしたら救えたのではないだろうかという淡い期待。
 もっとも、ネコの医者になった今だからこそ、あの頃では何をどうしようとも、結局はどうにもならなかったであろうというのが痛いほどわかってしまったのではあるが。
「だけど、俺はこの道を選んだことを後悔していないし、むしろ、よかったとさえ思ってる。つぐないを抜きにしても」
 その目には嘘偽りはまったくなかった。
「そうか。それならいいんだけどな」
 それだけ言って、清也は腰をあげ、立ち上がった。
「さて、少し長居しすぎたかもな。でも、久々にお前とあえて楽しかった」
「ああ、俺も」
「ま、暇でも出来たらちょくちょく来てやるさ」
「いや兄貴、ちょくちょくはヤメロ」
「こりゃ手厳しい」
 そう言って、清也は肩をすくめた。
 
 立ち去りかけて足を止め、清也は振り向いた。
「そうだ、これだけは忘れないでくれ」
 清也は柔らかく微笑んだ。
 それは、嘘偽りのまったくない心からの笑みだった。
「例えお前が何であったとしても、オレにとってお前は大切な弟だよ」
 
 
 
 
 
 
 清也が去った後で、診察室で今度は潤とフルールが向かい合っていた。
 フルールの目は、詳しい釈明を求めているように見えた。
 事実、それは間違ってはいないのだろう。
「っつってもな……話しても長くならないし」
「そういう場合、普通は『話せば長くなる』と言いませんか?」
「そう言われても、初めから長くするつもりなんてないんでね」
 フルールは「そうですか」とだけこぼして、自らの疑問をぶつけた。
「今日訪れたあの方は一体どなたですか?」
 潤はその言葉に一瞬だけきょとんとして、薄く天井を見上げた。
 そう言われてみれば、先ほどまであった兄弟の語らいにフルールは参加していない。
「遠坂清也。俺の兄貴だよ」
 その答えはフルールも予測しえた範囲だったからか、フルールの顔に驚きの色は見られなかった。
「なるほど、双子の兄弟というわけですね」
「いや。それは違うし、ありえない」
 この返答には、さすがにフルールもきょとんとする。
 その様子を見て、潤は苦笑した。
 確かによく言われていた覚えはあるが、今でもそう思われるとは正直あの頃は予想していなかった。
「どうしてそんなはっきりと言えるのですか?」
「確かに双子に見られることもあったけど、実際は二年くらい開きがあるし、それに――」
 そう。どんなに容姿は似通っていても、事実、清也は潤より二歳ほど年上なのだ。
 それに、仮に生年月日がまったく同じだったとしても二人は双子ではありえない。
 なぜならば、
 
 
 
 
 
 
 
 
「兄貴は正妻の子で俺は妾の子。そう言えば十分だろ」
 そう言って、実に皮肉げに、潤は笑った。
 
 

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