本日もこれといって何もない一日でした。
いや、平和なのはいいのだが、こうも何もない日が何日も続くとなんというか、あれである。
「悪いわけじゃないが、生活に影響が出てきたら困るし、微妙なところだな」
ぼそりと何とはなしに呟いてみる。
今の所はそこまで不安がることではないが、日々の用心は必要だろう。
そういうのは急に訪れたからといってどうにかできるものではないからである。
俺は診察室のデスクについてのんびりと窓から空を見上げていた。
青空に浮かんでいる雲が風に流されてゆっくりと移動している様を眺めていた。
風に流されながらも、雲はゆっくりとその形を変えてゆく。
そう。変わらないものなどない。
あらゆるものがうつろい、消えてゆく。
うつろわぬものなど、あるのだろうか?
流れる雲を見上げながら、そんな事を考えてみた。
「潤様」
考えていたことを中断してその声に振り向く。
フルールはいつものナース服ではなく、上はビスチェにベスト、下はジーンズという少々ラフな格好をしていた。
「それでは出かけてきますので、しばらくはお一人でお願いします」
びっと格好良く右手を挙げるフルール。
左の小脇には『食べられる野草100選』というタイトルの本を抱えている。
「ああ、行ってらっしゃい」
俺は優しい眼差しで、出かけようとするフルールの後ろ姿を眺めていた。
でもな、フルール。一つだけ言わせてくれ。
――ウサ耳のカチューシャは、やめた方がいいんじゃないか?
いや、フルールの趣味なのに何故か俺の趣味が疑われているからではなくて。
診察4回目
花咲くお時間
カーテンを開けるとまばゆい朝の光が差し込んできた。
その光に、私は思わず目を細める。
伸びをして軽く深呼吸。意識がよりはっきりとしてくる。
ここで一気に覚醒状態に持ってくるべく冷水で顔を洗う。それが済んだら着替え。
本日は久々にお休みの日なので余所行き用の服に着替えた。
今日はちょっと用事ありなので。
申し遅れましたが、私はフルール。
ネコの看護婦さんです。
私の名前には『花』という意味があるそうです。
だから(だと思うのですが)潤様は当初私の事を花子と呼ぼうとしていましたが、それはちょっと短絡的ではないでしょうか。
もっとも、私の誠心誠意の説得が効いたのか、今ではちゃんと私の事を普通に名前で呼んでくれていますが。
そのことについて潤様は「あれは説得じゃない。絶対に説得なんかじゃない!」と声を荒げて言っていたことがありました。
鬼気迫る、というのはああいう状態の事を指すのでしょうか?
……まあ、確かにちょっぴり実力行使にでたこともあったかもしれませんが。
それはさておき。
私は診療所の前に立ち、待っていました。
間もなく、私にとって妹のようなネコ少女が向こうから駆け寄ってきました。
「フルールおねえちゃん!」
私の胸に飛び込むようにしてやってきた彼女――ミーコを私は抱きとめました。
彼女とは、彼女に名前がつけられたときから縁があります。
ただ、彼女にミーコという名前がつけられたあのときのことを思い出そうとすると、私は決まって、あのときの潤様の寂しそうな、悲しそうな横顔を思い出します。
なぜ潤様がそのときそんな表情をしていたのか、私は今もその理由がわからないままです。
訊けば教えてくれるかもしれない。あるいは教えてくれないかもしれない。
あのときの潤様の横顔が、触れてはいけないもののような気がして、いまだにその理由を訊ねたことはないのですが。
「おねえちゃん、どうかしたの?」
その声によって我に帰ると、ミーコは邪念などまったくない澄み切った綺麗な目で私を見上げていた。
私は軽くかぶりを振ると「何でもありませんよ」と微笑みを浮かべながら言った。
「それじゃあ、ミーコをよろしくお願いします」
そう言ってミーコの主人は軽く頭を下げた。
どうやら、私たちが出かける間に彼らは彼らでなにやら話があるらしい。
まったく興味がなかったわけでもないが、踏み込まれたくない領域は誰にでも存在するもの。
それがわかっているから、私はあえて何も訊かなかった。
「それじゃ、今日は何処へ行きましょうか?」
私は隣を歩いているミーコに問いかけた。
それはすでにミーコと共にお出かけをする際の決まりごとのようになっている。
「んーとねぇ……」
彼女は口元に指を添えながらその目は空へと向けていた。
その様子が微笑ましくて、私は思わず顔をほころばせた。
――道すがら、空を見上げてみた。
かつて、ご主人様の膝の上に乗っていた、まだ幼かったあの日の情景を思い浮かべる。
今まで私が『ご主人様』と呼ぶひとは、あの方だけだった。
……だと、いうのに。
頭をなでられて嬉しいと思っていたはずなのに、ご主人様の手のひらの感触が、思い出せない。
優しい言葉をかけてもらったはずなのに、ご主人様の声が、思い出せない。
あんなに優しい温度に包まれていたというのに、私がたったひとり『ご主人様』と呼んだあの方の顔が、今はもう思い出せない。
逢えない。もう二度と逢うことなどかなわないと分かっている、私のたった一人だけのご主人様。
目から零れ落ちるほどまでにいたることのなかった涙は、まばたきによって瞳の中に融けて消えていった。
「おねえちゃん、どうしたの?」
ミーコの心配そうな声で我に帰る。
私は微笑んで、軽く首を横に振って「ちょっと。たいしたことではありませんから」と彼女を安心させるために言った。
その後は女同士でウインドウショッピングにいそしんだり、朝見屋で昼食をとった後にファンシーショップで冷やかしたりなどして、実に他愛のない、だがそれでも充実した一日を過ごせたと思う。
赤く染まり始めた空の下、ふたり並んで帰り道を歩いている。
隣を歩いている少女に気づかれないように小さくため息をついた。
ご主人様の事を思い出してしまったからかもしれない。
今でも、胸に燻っているものを感じて、私は軽く俯いた。
――潤様になら、私は『ご主人様』と呼んでもかまわないのに。
しかし、彼自身はそれを嫌っているふしがあった。
主従で括ることをよしとせず、対等の立場にあることを望んでいる。
その気持ちがまったくわからないというわけではないし、私を私個人として認めてくれることは決して悪いことではない。
ただ――時折、どうしようもなく不安になることがある。
いっそ、私が潤様の飼いネコで、主従という確固たる鎖で縛られていれば、こんなに不安を感じることもなかったかもしれないのに。
ミーコと別れ、家に戻った私は、私にあてがわれている部屋へと入る。
机の上にカチューシャを置くと、そのままぞんざいにベッドの上になだれ込むように身を預け、ぼんやりと天井を眺めた。
あのひとはあらゆることに鋭いくせに、ただ一点、好意に関しては非常に鈍い。
否。それは正確ではないだろう。
年季が入っていると言えるかどうかはわからないが、それでもあのひとと共に過ごした年月は決して浅くはない。
それゆえ、なんとなくわかってしまった。
あのひとは、自分が幸せになろうとすることを心の奥底で拒み、恐れてさえいる。
あのひと自身は、そのことに気がついているのだろうか。
「――――ッ」
途端に、憎らしく思えてくる。
あのひとは自分が幸せになることをどこかで拒んでいる。
それなのに、あのひとはあんな笑顔を浮かべられるのだ。
多分、あのひとは気づいてはいない。
理由は簡単だ。あのひとは自分自身さえ、巧く騙しているから。
そこまでして自分の幸せを追いやろうとする理由はわからないし、無理に知ろうとも思ってはいない。
それなのに、つい思ってしまうのだ。
私では、力になれないのか、と。
そのことが許せなくて、やるせなかった。
それでも、昔に比べると、自然に笑顔を浮かべる回数が増えたような気がする。
それを思い出して、また私は思う。
私と彼が初めて出会ったあの日、本当に救われていたのは、一体どちらだったのだろうか――と。
あのひと自身さえ気づかない、かたくなな意思。
それが変わってあのひとが自分の幸せを追い求めるようになれる時は来るかもしれないし、来ないかもしれない。
もしその時が来たとしても、あのひとの隣に立っているのは私ではないかもしれない。
「それでも、それでも今は、今だけは、あなたの側で、あなたを支えても、かまいませんよね? 潤様……」
そう呟いて、私はそっと、まぶたを閉じた。
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