じゃぶじゃぶとバケツの水につけてモップを洗う。
そして、床の掃除を再開した。
一応、こういった雑用事は、現在はフルールの担当となっているはずである。
しかし、そういった雑用を全てフルールに任せきりにしてしまうのも申し訳ないと思っているので、ある程度は自分でもやっている。
だがそれも、暇の多い証拠だと思うとちょっと悲しい。
「しかしまあ、こうやって雑用していると、雑用専門のバイトとか欲しくなるよな」
「そのお気持ちは、わからなくもありませんが」
「どっかにいないかな……。タネと仕掛けはないけどオチとうけもない、手を触れずに人形を動かせる住所不定の旅芸人なんかいたらまさにぴったりだと思うんだが。翼を持った少女を探していればパーフェクト」
「……なんか、すごく具体的ですね」
というか、そのまんまだろうと俺も思う。
あまりにもそのまんますぎるという気もしないでもない。
「ああ、でも俺、メス投げはうまくないや。人に当たったことないし」
「潤様、メスを投げたことがあるのですか? しかも人に向けて」
「………………」
「………………」
「さ、掃除掃除。早くしないと終わらないぞ」
「……逃げましたね」
診察3回目
往診のお時間
今日も何も問題のない一日でした。
となると思っていた矢先のことだった。
電話が一本。
あいつから、少し慌てた声で。
平和だし、少しくらいこの場から居なくてもフルールが何とか立ち回ってくれるだろう。
そう思って、いくらか器具のつまったかばんを持ち上げて、しばし出かけることにした。
俗に言う、往診、というやつである。
あいつの少し慌てたような声。
それを思い返すと、不謹慎かもしれないが、心なしか頬が緩んでしまう。
道すがら、少し長めの坂道を下る。
不意に、あの二人の姿を幻視した気がした。
あいつと、美衣と。
かつて見たことのある光景。
あれは、そう。あいつがミーコちゃんを初めて連れてきたときと同じような、雨の日のことだったように思う。
もっとも、幾分距離もあったし、向こうは俺の存在には気づいていなかっただろうが。
あのときは、こんなことになるなんて微塵も思ってはいなかった。
もっと、ずっと、あの二人はともにあるのだと思っていたのに。
軽く首を振り、先ほどまでの思考を追い払う。
あいつの住んでいるところにつく前に、俺はそのそぶりさえも見せてはいけないと思ったからかもしれない。
呼び鈴を鳴らすと、すぐにあいつが玄関のドアを開けた。
勝手知ったる人の家、とばかりに俺はあがりこんで反射的に軽く見回した。
俺はそのままミーコちゃんの寝かされている部屋に通された。
彼女は赤い顔をして熱にうなされている。
一見すると風邪の症状そのまんまだが、たまに風邪の症状にも似たもっと厄介な病気があるので素人判断は危険である。
俺はそれを調べるためにミーコちゃんの胸に聴診器を当てた。
ひんやりとした金属の感触に、彼女は軽く身をよじる。
とくとくと聞こえてくる、彼女のいのちのこえ。
――そう。この娘は今、ここに生きている。
俺は聴診器を外して軽く息をついた。
「特に重大な疾患は見られないな。ただの風邪だ。温かくして栄養のあるものでも食べさせればすぐに治るだろ」
そして俺はかばんをあさりあるものを取り出す。
「どうしてもって言うんなら、治りが早くなるように注射でもしてやるが?」
これにはさすがにミーコちゃんが怯えていた。
「いやー! ちゅーしゃはいや!」
その怯えようを見ていると、さすがに悪いことをしているような気分になってくる。
無理強いは良くないので、俺は注射器をしまった。
注射を打たなくても、安静にしていればよくなることは分かっていたし。
それにしても。俺は思う。そんなに注射が嫌いなのか。
よくあいつからおちゅうしゃをしてもら……げふんげふん。
知らない。俺は何も知らない。
そりゃあ、あいつを酒に誘ったことはあるし、ちょっと飲ませすぎじゃないかと思うところまで飲ませたこともあったかもしれない。
不意に、あいつの生活のことが気になってついでだからと訊いてみたことがあるような気はしないでもない。
だが、泥酔したあいつがミーコちゃんとの『性活』を次々と話し出してきて慌てたなんていうことはないし、俺は慌てながらも一言一句逃さずにそのお話を聞いていたなんていうこともない。三連発とか外とかいう単語なんて聞いたこともない。あまつさえ、その翌日に泥酔していた頃の記憶がなかったからあえてあんな事を語っていたということを教える必要はないだろうと内心ほくそえんだということはまったくない。
ないったらない。
「ま、でも確かに素人判断に任せず俺を呼んだのは正しい」
「そう、よかった。それから、ありがとう、潤」
「気にするな。俺とお前との仲だろう。それから御代はいらないぞ。こんな簡単な診察程度でお前から金を取るほどには生活は困ってないからな」
まあ、と俺は続ける。
「代わりといっちゃ何だが、今度俺とお前の余裕のあるときにでも酒に付き合え」
俺は軽く笑った。
「ああ。わかった」
あいつも軽い笑みを浮かべる。
と、その目がすぐにじとついたものに変わった。
「でも、今度はミーコにお酒をみだりにのませないでほしいものだけど」
俺は口元を引きつらせ、乾いた笑い声を上げた。
確かに、あれはやりすぎたかもしれない。
「……善処する」
それだけ言って、俺はその場を後にした。
これ以上あいつらのお邪魔をする気はまったくなかった。
道すがら、少し長めの坂道を上る。
不意に、あのふたりの姿を幻視した気がした。
あいつと、ミーコちゃんと。
あのふたりも、そんなふうにこの坂道を通ったことがあるのだろうか?
不意に、視界が滲む。
目の中にとどめきれなかった分が、頬を伝ってつう、と流れ落ちた。
――もしカミサマがいるのなら、頼む。
一旦歩みを止めて空を見上げ、俺は祈るように願った。
――あのふたりだけは、引き離さないでやってくれ。
「ミーコの具合はどうでしたか?」
フルールが心配そうにそう問い掛けてきた。
「ただの風邪だったよ。心配は要らない」
そう言うと、フルールの表情が心なしか和らぐ。
「そうですか、よかった……」
「心配だったか? 『近所のお姉さん』としては」
「当たり前じゃないですか」
フルールは、はにかんだ。
今は笑ってもいい時だと、知っているから。
だから俺は、それに返すように、少しだけ笑った。
数日後。
『なんかね、ご主人様の元気がないの』
電話越しに聞こえてくるミーコちゃんの心配そうな声。
だが、その声は風邪をひいていたあのときと比べると明らかに気力に満ち溢れていた。
どうやら、風邪は無事に完治したらしい。
それはともかく。あいつの元気がないとはどういうことだろうか?
俺はしばし考えて、結論に思い至った。
「よしわかった。俺の言うことをよく聞けよ」
………………。
…………。
……。
「それで、ミーコは何と?」
「ご主人様の元気がないからどうすればいいか、と訊いてきた。きっとマンネリなんだろうと思って、裸エプロンと黒ニーソックスで迫ってみろとアドバイスしてやったぞ」
何故か、フルールからの視線が険しくなる。
「潤様、本当にそんなこと言ったのですか?」
「ああ、そうだが」
「知りませんよ。後でどうなっても」
フルールは額に手を当ててなにやら嘆いていた。
さらにその翌日。
ミーコちゃんは診療所へとやってきていた。
彼女は屈託のない笑みを浮かべて俺の前に立った。
「あのね、お礼参りに来たの」
わざわざお礼を言いにきたとはなかなか律儀な……ってちょっと待て。
おれ、いま、いり?
次の瞬間、彼女の爪が閃いていた。
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