「♪〜♪♪〜♪〜♪♪♪〜」
俺は星を見上げながら上機嫌で鼻歌を奏でていた。
その手はコンビニで購入したつまみの入った袋を持っている。
それも、兄貴がみやげにと上質な酒を持ってきてくれたからだ。
あの喉を焼くような独特の味わいがいい。
兄貴もたまには粋なことをしてくれる。
兄弟で酒を酌み交わしながらいろいろな話を肴にするのも悪くない。
そんな事を思いながら、俺は家路を急いだ。
「お帰り、潤」
「兄貴、つまみ買ってきたぞ!」
俺は袋を高々と掲げる。
「そういえば潤」
「何だ兄貴?」
「フルールさんって、お酒に弱いんだな」
どさり、と音がした。
先ほどまで掲げていた袋を取り落とした音。
だが、そんなものは実に些細なことだ。
さっきこの男はなんて言った?
「おい、兄貴……、あんたまさか、フルールに酒を飲ませたなんてことは……」
「ああ、うん。彼女、酒に弱いんだな。すぐに顔が真っ赤になってたよ」
やりやがった。
やりやがったよこの野郎。
「麻酔! 麻酔はどこだぁぁぁ!」
あーもう! 近頃はそういったもの全てフルールにまかせっきりにしてたから何処にあるのか全然わからねぇ!
嫌だ、死にたくねえ! もう二度とあんな目にあうのはごめんだ!
あいつやミーコに酒を飲ませたりはするけど、フルールにはもう絶対に一滴も酒を与えないと誓ったはずなのに!
兄貴に忠告するのをすっかり忘れてた!
なんて、なんて間抜けなんだ俺は!
「おいおい、どうしたんだよ」
わかってないのかこの男は!
「あのさぁ兄貴、ネコにはストラグル・キャットっていう希少種が存在するんだ」
「ほう」
「そいつは闘争特化したネコでな、自己があやふやな状態だとさらにヤバイ」
自己抑制が弱まって、闘争本能が思いっきり前面に押し出されてくるから。
「すばらしいことに、フルールはストラグル・キャットだ」
「そりゃあ大変だな」
わかってない。兄貴はわかってない。
「後ついでに言わせてもらえば、暴走状態のフルールは俺でも抑えきれる自信はない」
腹部に傷を負って運動能力が鈍っている、とかならまだ話は違ってくるが。
最近のフルールはケガも病気もなく健康そのものだ。
「……それって、どれくらいヤバイ?」
「澄乃に勝らずとも劣らず、といった具合だな」
兄貴は呆然と口をあけていた。
ようやく事態が飲み込めたらしい。
「それは死ねるな。余裕で」
「ああ。だから一刻も早く、麻酔を見つけないと」
必死になって麻酔を探していると、兄貴がなにやら青ざめた顔をして俺の袖をくいくいと引っ張っている。
「兄貴、いったいどうし――」
ふりかえれば、ほら。
そこには、たたかうあくまなねこさんが――
診察7回目
少女のお時間
軽く、伸びをした。
診察室は閑散としている。
器具や薬品の整理を終えたら、することがなくなってしまった。
遠坂パラレルキャット診療所は潤様不在のため現在機能していません――な状態だ。
潤様は用事があっていずこへと出かけていってしまった。
そのまま寄合に顔を出すということで、今日は帰ってこないらしい。
となればどうしたものか。
困ったことに、仕事がなければないで落ち着かない。
どうやら、ここで与えられていた役目に、私は随分となじんでいたらしい。
しばらくの逡巡の後、私服に着替えて街を散策することにした。
せっかくだし、ふってわいた休みだと割り切ることにしよう。
「むぅ。私って意外と趣味がなかったみたいです」
独りそんなことを呟いてみる。
街の人は私の姿を見ると挨拶をしてくれる。
診療所における看護婦としても、知名度は思った以上にあるようだ。
もっとも、診療所のはずなのにほとんどコミュニケーションの場と化している現状は、潤様だけでなく私にとっても複雑なところではあるが。
まぁ、それでも人に親しみのある場、というのは決して悪いものではないだろう。
ちなみに、現在わたしの手には買い物袋が握られている。
途中で冷蔵庫の中身が心もとなくなってきたのを思い出したからだ。
潤様はそういうところがたまにぬけていると思う。
……で、何故か診療所の入り口に見慣れないネコがいた。
なにやらメモを見て、カンバンと見比べている。
そして入り口に手をかけていた。が、開かない。
無理もない。私が出かける際に鍵をかけておいたのだから。
彼女は一つため息をついて、どうしたものかと逡巡しているようだった。
「あの、この診療所に何か御用ですか?」
声をかけてみる。
相手は初めこそ驚いた表情を見せたが、すぐに冷静さを取り戻し、
「はい。とはいっても、診察等の用ではございませんですのけれど」
と、慇懃に返してきた。
確かに、診察等の件ではないとは思った。
彼女は見たことがない。すなわち、この街の住民ではないということだ。
さらに、この気品あふれる様子からいって野良とも思えない。
きっとどこかの良家のネコだろう。
だとすればなおさら、わざわざこの街の小さな診療所に医療目的で来ることなんてありえないだろう。
………………。
潤様、申し訳ありません。
決してあなたを貶しているわけじゃないんです。本当に。
「そうですか。でも、それならばどんな御用ですか?」
そう言うと、彼女は怪訝な顔をした。
そこで初めて、私は自分の身を明かしていないことに気づいた。
「私はこの診療所に住み込みで働かせていただいている者です」
言って、私は鍵を開けた。
「何か御用があるのでしたら中でお伺いいたしますが」
彼女は少しばかり考え込んで、その意に従った。
「それでは、本日は、遠坂様はお戻りになられない、とおっしゃられるんですの?」
私の淹れたお茶をさましながら、彼女は少し気落ちした様子で言った。
「潤様に何か御用でしたか?」
そう問いかけたとき、何故か嫌な予感を覚えた。
思えば、これはネコの第六感だったのかもしれない。
彼女はこくりと頷いた。
「申し遅れました。わたしはシトラスと申します。この度はわたしの主人である茜様との橋渡しをするべくこの場に参りましたの」
あれ? 今、前に聞いたことのあるような人名が出てきた気がするのですが。
「橋渡しとは、一体……?」
「もちろん、茜様が遠坂様と婚儀にいたれるように、でございますの」
………………。
何か聞こえたような気がしましたが、気のせいでしょうか。
「失礼」
私は軽く咳払いする。
「今、婚儀、とか聞こえたような気がするのですが」
「ええ。確かにそう申しましたが?」
「そ、それについて潤様は承諾済みなのですか?」
シトラスと名乗った少女は少し残念そうに首を横に振った。
そのことに、私は少し安堵する。
「わたしの知る限り、初めてなんですのよ。お嬢様が、茜様が確固とした自分の意思をぶつけてきたのは」
彼女は茶を含み、喉を軽く潤わせてから少しうつむき気味になって言った。
「あの方は、今まで日比谷の家が定めた方針に逆らうことは一度たりともありませんでしたのよ。わたしの件についても、日比谷――茜様のお父上が反対しなかったからこそわたしは茜様に飼われているのだと分かっておりますのよ。お父上が反対なされれば、わたしはきっと茜様のお側にはいることはなかったことでしょうね」
「………………」
自虐的な笑み。かたかたと震える身体。
そんな彼女に、私は何も言えなかった。
私は、ご主人様といたときも、放浪の身となっていたときも、現在も、縛られていると思ったことはなかったし、実際そうだったのだと思う。
同時に、そんなひとを身近で見る機会もなかった。
もしかしたらご主人様は『縛られていたひと』だったのかもしれないが、いかんせんそのときはそういったことがまだ理解できるほど成長していなかったのだろう。
だから、縛られなければならない者の気持ちは理解できていないだろうし、理解できていないからこそ、何も言えはしなかった。
「そんな茜様が、少しはにかんだ様子で、今まで見せたことのないような力強さで、遠坂様のことを言ってきたんですの」
「………………」
何か言葉を発しなければ、とは思ったのだが、あいにくとこの場にふさわしそうな言葉がまったく浮かんでこなかった。
「スミノ様とはどうかわかりませんが、スミヤ様との仲は決して悪くない。むしろ良いご様子のようですし」
……とりあえず、スミノって誰ですか?
女性の名前と思われるのですが。
場合によっては、潤様にじっくりコトコト詰問せねばなるまい。
いや、おそらくは肉親とかそのあたりだとは思いますが、念のため。
「つまり、いまだ遠坂の家ともつながりが深いはずなのですの。ですが、なぜか日比谷の家はあまり乗り気ではありませんの」
彼女は少し、気落ちした様子を見せていた。
「いつもの茜様ならそれを素直に受け入れて諦めていたとしてもおかしくない、いえ、むしろそれが自然なはずですの。でも、わたしの知る限りでは、そのとき茜様は初めて自分の意思というものを見せたんですの」
俯きがちに、それでも彼女は小さく笑みを形作る。
それは、偽りなく彼女自身の感情を鏡のように映し出しているのだと私には感じられた。
「わたしは茜様の意思を尊重したい。日比谷の家に何と言われようと、たとえ日比谷が敵にまわろうとも、わたしは茜様の味方でありつづけますの」
その茜というひとにも色々と事情があるのだろう。
だからといって潤様を諦める気は毛頭ないけど、そうやって家に縛られている中でそれでも自己を貫くというのは勇気のいることだったのではないか。
そのことだけは、理解してもいいかもしれないと、私は――
「そして、茜様と婚姻を結んだあかつきには、わたしも側室としておいてもらうつもりですの」
マテ。激しく待てそこ。
思い切り信じられない言葉が飛び出したような気がするのですが。
目の前の少女は心なしか顔を赤らめている。
「あの、真剣にわたしのことを気遣ってくださったことと、その時の凛々しい顔にわたしもあのお方を好きになってしまったんですの」
何故にそれを私の前で言うか。
というかそれが本音か。
「茜様は快く承諾なさってくださいましたし、茜様と遠坂様が結ばれればわたしも……」
――血が、沸き立つ。
ああ、血の悪夢が今ここに再来できそうな気がした。
大丈夫です。私も看護婦の端くれ。殺しはしませんよ『殺し』は。
幸いにしてここは診療所。何かがあっても応急処置だって出来るし、場合によっては入院をしてもらってもかまいませんし、ね。
そんな私の内心を知ってか知らずか、少女はくす、と微笑った。
「ですから、あなたも本気を出さないと、本当に遠坂様を奪ってしまうですの」
わたしとしてはあなたもいようが別に構いませんけれど、と彼女は続けていた。
――毒気が、抜かれた。
ああ、つまりは、そういうことか。
彼女は私の潤様に対する気持ちに気づいていて、だからこそ牽制するように言ってのけたのか。
気持ちは決まっているくせにいまだ燻っている私に対する発破の意味合いもあったのでは、と考えるのは、早計なのかもしれないけれど。
日の落ち始めた空。来訪者はすでにここにはいない。
他に誰もいない診療所で、私は独り考える。
さて、潤様が帰ってきたらどうしてやろうか。
とりあえず、鈍感なくせにネコたらしなあの人を、たしなめる程度には引っ掻いてやろうと思った。
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