「潤様は、どなたか好きな女性というものはいらっしゃいますか?」
「あ?」
唐突に、フルールがそんな事を訊いてきた。
俺は椅子の背もたれに身を預け、思いっきり伸びをする。
その際、椅子が後ろに倒れかけ、慌てたのはご愛嬌。
「今んとこはいないな。そういうのは」
「そうですか」
何故か、安堵の混じった声に聞こえた。
「そういうフルールは誰か好きな奴でもいるのか?」
「え? どうしてそう思うのですか?」
慌てるフルールはなんか新鮮だった。
というか、その話の流れで気づかないわけがないだろう。
「え、ええ。一応は。ですけど、かなわない想いだと、思っていたんですよ」
俺は、もじもじするフルールをはじめて見た。
「ですけど、あの人とミーコの二人を見ていると、そうでもないのかなって思えて」
「ああ、あいつらか」
確かに、今は甘ったるい空気が目に見えるくらいあいつらは『一緒』って感じがする。
「ということは、フルールが好きなのは人間なのか?」
フルールは少し顔を赤らめてコクンと頷いた。
「ただ、そのひとは鈍感みたいですけど」
「そりゃあ難儀だな。まあ、応援してやるからがんばれ」
フルールはにこりと笑った。
だが、その笑みがどこか凄惨なものに見えるのは、俺の気のせいだろうか。
「ええ、がんばりますよ。そのひとは本ッ当に、鈍感みたいですけど!」
「フルール、お前、なんだか、怒ってないか?」
「いいえ、怒ってなんていませんよ」
……絶対、怒ってやがる。
俺、何かフルールの気に障るようなことでもしたのだろうか?
診察2回目
回想のお時間
「あの、潤様」
それが、待合室で談話なぞ繰り広げている平和な人たちに律儀に茶を持っていって戻ってきたフルールの第一声。
今日も診療所はのんびり空間らしい。
「どうした? フルール」
「いえ、たいしたことではないのですが」
こほん、とフルールは軽く咳払いした。
「どうして潤様がネコの医者を志したのか、なんとなく気になってしまって」
「あー……」
俺はなんとなく天井を見上げた。
確かに、昔は「どうしてわざわざネコの医者を志すのか」と親父に問われたこともあった。
都心でお上品なネコばっかりを相手にしている奴らには分からないだろうが、時には凶暴なネコを相手にしなければならないということもある。
近頃は愛玩用の改良種ばかりがあふれているため、そういった事例は今ではほとんど少なくなっているが、もともとの基本はやはりネコと医者のまさに言葉どおり、戦いだったのだろう。
かくいう俺も、かつて『血の悪夢』という二つ名で呼ばれたネコを相手にしたことがあった。
あのときは今までの人生の中で最も死というものを身近に感じた気がする。
閑話休題。
とりあえずそのときは、それなりに納得してもらえる理由を用意したと思った。
まあ、少なくとも嘘ではなかったはずだが。
「……そんなに知りたいのか?」
「はい」
フルールは力いっぱいうなずいた。
しかし、俺はそれを話すことにあまり気乗りはしていなかった。
子供の頃の話だったから、というのも確かにある。だが、それだけではないような気がした。
「確かにさ、一番初めの動機と思われるものはあるけど、本当に子供のときの話だし、くだらないと思うぞ」
心なしか嫌そうに言ってみる。
もしかしたら、守りたかったのかもしれない。
フルールはそんな俺の心などそしらぬかのように、にこりと――怖気立つような――笑みを浮かべ、
「かまいませんからよかったら話してください」
選択肢など、存在しないように思えた。
一般的に男が女より力持ちな理由が良くわかる。
そうでもしなければ、強さのバランスがまったく取れやしないからだろう。
結論。
ヒトだろうがネコだろうが女は強い。
「昔、まあ要するにガキの頃の事なんだが――」
確かそれは俺が学生のときの頃だった。
その頃、同級生にマドンナとも呼ばれていた可愛い女子がいたんだが、
「マドンナ、ですか? 可愛い、ですか?」
「そこ、いきなり話の腰を折ろうとするな。というか、その険しい眼差しをやめてくれ」
怖いから。
それを言うともっと怖いことになるのはわかりきっているから口には出さないけど。
「…………わかりました」
その間が気になってしょうがなかったが、今はおいておくことにする。
そうしないと、何だか恐ろしい目にあってしまいそうな予感がしたからだ。
その娘が、ある日子ネコを拾ったんだよ。
彼女の家自体は裕福ではないが貧しいわけでもないごく一般的な家庭だったみたいだが、当時ネコを養っている家庭といえばそのほとんどが裕福な家なんだが、別に裕福じゃない人がネコを拾って、あまつさえ育てようとしてはいけない、なんて法はなかったわけだし。
それで、彼女の愛情のおかげか、その子ネコは元気がありあまるほどになったんだ。
本当に元気いっぱいで、だから、まさかあんなことになるなんて思ってもみなかったんだ。
「あんなこと、とは?」
「そのネコが病気にかかったんだよ」
「病気、ですか……。それは、そんなに深刻な病だったのですか?」
フルールは俺の顔を見てそう問いかけた。
俺は静かに首を横に振る。
「放っておけば危険だったろうけど、そこまで深刻なものでもなかった。すぐに医者にかかれば治ったかもしれない」
だけど、この街にはネコのための医者なんてまったくいなかった。
今でもこの街にあるネコのための診療所なんてウチ一つきりだし、な。
しかも今でこそ都心に通じている駅が当時はこの街にはなかったし。
都心にいったとしても、治療費なんて高くてとてもじゃないけど医者にかかることはきつかったんじゃないか?
今はその頃に比べれば治療費が良心的なところもそれなりにあるけど、ネコを飼うのは裕福な人というイメージが強かった頃だったし。
あの娘の泣き顔と、次第に病状の悪化していくネコの表情が、今でも脳裏に焼き付いている気がするよ。
「それで、そのネコはどうなったのですか……?」
俺は、首を横に振った。
「……そう、ですか」
「そのとき、俺は思ったんだ。この街にネコを診るところがあれば、彼女も悲しまなくてすんだし、あのネコも元気良くはしゃぎまわっていたんじゃないかって」
フルールの表情はすっかり沈んでしまっていた。
耳も元気なくたれている。
「潤様は、その少女の事が好きだったんですね」
「そりゃ、まあ……」
と、俺は軽く首を傾げフルールを見た。
「といっても、別に恋人になりたかったとか、そういうのじゃあなかったな」
友人として仲良くなりたいというのはあったかもしれないが。
結局彼女とはそれっきりで、今じゃ会った事もないけど特に気にしちゃいないし。
それを聞いて、なぜかフルールの耳がぴんと立った。
「それじゃあ、まだチャンスはある、というわけですね」
「チャンス?」
「あ、いえ、こちらの話です」
フルールは態度が一転して慌てたようになる。
「そ、それじゃあ、用事があるので、これで失礼いたしますッ!」
パタパタと音がしてフルールが待合室の方へと消えていった。
それを見送り、しばらくして、俺は大きく息をついた。
先ほど話したこと。
それは確かに診療所をこの街に構えた理由ではある。
だが、ネコの医者になろうと決めた理由としては足りない。
そしてその理由は、やはり、話すことは出来なかった。
それは、あまりにも俺の内面に深く関わりすぎているから。
「もっとも、だからこそ、親父にはバレバレだったみたいだけどな」
自分の他に誰もいない診察室で、そんな呟き声がむなしく響いて消えていった。
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