ゆさゆさと、ゆれている。
「違う。そこは、青じゃなくて、緑……」
「ちょっと師匠、何を言っているんですか?」
ゆさゆさと、ゆさゆさとゆすられている。
「師匠、こんなところで寝てたらさすがに風邪をひいちゃいますってば」
「うう……」
仕方なく、目を開ける。
どうやら資料整理中に机の上でそのまま寝入ってしまっていたらしい。
「ん……ああ、悪い夕菜。そのまま寝てしまってたみたいだ」
そう言って俺は、少し前にこの診療所に新しくやってきたネコの看護婦さんである夕菜を見た。
「寝るならちゃんとベッドかお布団の中で寝た方がいいですよ」
「そうだな」
夕菜が俺のことを“師匠”と呼ぶのは昔ながらのことなのだが、その発端が今は思い出せない。
その呼び方を改めさせた方がいいんじゃないかと思ったこともあったが、結局、彼女は今でも俺のことを師匠と呼んでいる。
というか、その呼ばれ方になじんでしまっている自分もちょっとアレだな、なんて思ったりもする。
今は喋り方に『ですます言葉』がくっつくことが多いが、たまに昔ながらの言葉遣いに戻ることもあり、それがちょっと懐かしいと思うことがある。
――想い出は、美しいばかりではないけれど。
「ベッドとかお布団とか冷えて眠りづらいのなら、添い寝しましょうか。けっこうぬくぬくっすよ、わたし」
「いや、それはいいから」
「そう? ちょっと残念」
本当に残念そうに、夕菜は唇を尖らせた。
「それはそれとして、夕菜に訊ねたいことがあるんだが」
「うにゅ? 何かな、師匠?」
「どうして、ドア向こうでフルールはこっちを睨んでいるんだろうな?」
「さあ? 先輩はアノ日なんじゃないんですか?」
アノ日ってなんだ?
「血がどうしようもなく沸き立つ日、です」
ああ、ありえそうだなぁ、なんて思ってしまった。
定期検診
花見のお時間
「うむ。桜が満開だな」
「そうだね、師匠」
「ええ。本当に綺麗ですね」
俺とフルールと夕菜の三人は朝も早くから場所とりに中央公園へとやってきた。
どうも、他に何人か集まって来るらしい。兄貴がそう言っていた。
その兄貴自身も仕事を切り上げてここに向かって来るというのだ。
そのためにここ数日はスケジュールが過密だったらしいから、無事なんだろうか、とちょっと心配になる。
一本の立派な桜の木の下にシートを引く。
兄貴たちもやって来るというのでスペースは広めだ。
さっそく夕菜がシートの上で毛布に包まって丸くなる。
さすがにまだ少し薄暗い今の時間帯では肌寒く、毛布はとてもありがたい存在なのだ。
「さすがにちょっとねむねむです……」
そう言った夕菜の目は、どこかとろんとしていた。
「それなら夕菜さんはしばらく眠っていてくださって結構ですよ。あとは私たちがやっておきますから」
「そうですか。それでは、お願いしまふ。先輩、師匠……」
目を閉じてしばらくして、夕菜の寝息が聞こえてくる。
その寝顔は、あの頃と変わらなくて。まだ自分のことを『僕』と呼んでいたことのほうが多かったあの頃を思い出して。
あの頃のように夕菜の頭をなでる。起こしてしまわないよう、優しく。
少女というよりむしろ幼女と呼ぶほうがふさわしかったあの頃と、今とを比べるのは本当はあまりよくないのだろうけれど。
「思えば、十年以上、か」
ぼそりと、呟く。
十年以上。十年よりも上。夕菜の人生の半分よりも上。
それが、俺と夕菜との間にあるブランク。
無邪気な子供だって、親に殴りかかるようになるだけの年月だ。
小さく、息を吐く。
その間、よくもまあ俺のことを覚えていたものだ、なんて思ってしまう。
それが、嬉しくて、悲しくて、見えない傷痕がじわりと痛んだりもしたけれど。
やっぱり、嬉しかったんだろう。桜の木を見上げながら、思う。
「ところで、なんでフルールは俺のことを睨むように見ているのでしょうか?」
「知りません!」
なんて言いながらそっぽをむくフルール。
いまいち理由がよくわからない。
俺が夕菜の頭をなでていることが、彼女にとってはそんなに気に入らないことなのだろうか?
昔、出会った当初の頃につい頭をなでようとしたらひっかかれたことがあったし、
もしかしたら、フルールにとって頭をなでるという行為は見るだけでも嫌になるものなのかもしれない。
後にそのことを聞いた夕菜は「どっちもどっちだね」と少々呆れ気味に言っていたが、その意味は未だわかっていない。
「しっかし、ホントに全員集合って感じだな」
どこからどこまでで全員なのかはさておいて。
場所とりで最初からいた俺たちを除いても、
兄貴、澄乃、真紀子さん。あいつとミーコ(と双子の赤ん坊)。茜さんにシトラス。ミケさんはいつのまにか俺の頭の上に乗っていた。
さすがに父さんは来られなかったようだが、それでも澄乃と真紀子さんが来たのは意外だった。茜さんも。
「……だが、さすがにこんな光景が繰り広げられることになるとは予想していなかったな」
最初は和気藹々としていたはずなのだが。
酒。エチルアルコールを含む飲料が出てきたとき、光景は瞬く間に変貌した。
まず、ミーコが顔を赤らめてあいつに擦り寄った。
ミーコが酔うと甘える癖が出るというのは、以前に確認済みではあったのだが。
はじめこそあいつはかなり戸惑っていたが、ミーコをつれて個室トイレに駆け込んだまま、今も出てきません。
「十ヶ月と十日後、か」
意味不明な呟きをしてみた。
「ですからお兄様は甘いんです。だいたい――」
「いや、あのな?」
「口答えですか? 口答えするんですねお兄様は!?」
「うふふふふ……」
澄乃は説教癖があるらしい。
酒をあおりながら兄貴に何かを訥々と説いていた。
兄貴は逃げられなくて困惑しているようだった。
そういうときに、素面だとつらい。
そんな兄妹を見て、真紀子さんはほほえましいとでもいうかのように笑っていた。
いや、実際そんなほほえましい光景じゃない気がするのですが。
……もしかしたら、笑い上戸なだけかもしれないけれど。
微笑みながら酒をかぱかぱ空けていく様は、ちょっと怖かった。
真紀子さんって、そんな人だったんだ。
「わたしは、わたしはダメなネコなんですぅ〜」
シトラスって、泣き上戸だったんだな。
どこか遠い目をして、思う。
いや、本来シトラスと茜さんは自分を見失うまでお酒を飲むつもりはなかったようだが、
真紀子さんがすごくいい笑顔で酒を勧めるのを断りきれずについにはあのような状態にまで至ってしまった。
恐るべし。真紀子さんマジック。
というか、真紀子さんって、そんな人だったんだ。
「なんだか、あついですわね」
と言って脱ぎだす茜さん。……いや、待てそこ。
顔は真っ赤で目はどこかうつろ。間違いなく酔っている。
「うふふ。あらあら」
いや、ですから真紀子さん。あなたが原因ですってば。
「ちょっと茜さん! こんなところで脱ぎだすなんて慎みが足りませんことよ!」
あ、説教の対象が茜さんに移った。
今のうちにと言わんばかりに兄貴がこっちに避難してくる。
「ふぅ。やれやれ。まったく、こんなことになるとは思わなかった。誰だ? こんなに酒を持ってきたのは?」
「みんなだろう」
全員であれだけ酒を持ち寄れば、そりゃあ大量にもなるわい。
俺が持ってきて、今俺の傍らにある果実酒の缶は、まだ開けられてもいなかった。
「それにしても、潤はまだ一滴も酒を口にしていないんだな。ちょっと意外だ」
「こんな状況で、酒を口に出来るわけないだろう」
そんな俺の腕の中には、今も個室トイレにこもったまま出てこないあのふたりの赤子がいた。
もう片方の赤子は夕菜に担当してもらっている。
ちなみに、あえて誰とは言わないが、パラレルキャット・オブ・超酒乱は暴れる前に速攻で沈めた。
うん。麻酔吹き矢って便利。
「それにしても、そうやってるとまるで夫婦……か、妹の世話をしている兄妹か。どちらにも見えるし、どちらにもとれるな」
兄貴が俺と夕菜を見ながら言う。
その判断は、おそらく正しかったのだろう。
何しろ『夫婦』のくだりで、まだ麻酔が効いているはずの魔神がぴくりと動いたのが見えたのだから。
おかしいな。冷や汗が止まらない。
「にゃぅ……」
と、俺の腕の中にいる赤子――美亜がゆっくりとその目を開いた。
そして、俺に向かって手を伸ばしながら、
「ぱ……」
「ぱ?」
「ぱぁぱ」
「ほう……」
兄貴、その目はなんだ。
というか、ぱぁぱ? パパ? 誰が? 俺が? あいつらを差し置いて? いいの? いいの? いいのか?
「よかったな、ぱぁぱ」
「兄貴、俺はまだ子供を持った覚えはない、と、思うのだが」
というか俺がパパと呼ばれるなら、兄貴だってパパと呼ばれるんじゃないか? 双子ではないが双子級に似通っているんだから。少なくとも外見は。
美亜に兄貴を見せる。しばらくして、美亜は口を開いてこう言った。
「じぃじ!」
何故だ。
「オレ、じぃじか? まあ、別にいいんだけどな」
苦笑しながら、兄貴。
「みゅう……」
そんな声とともに、夕菜が抱きかかえている赤子――美羽も目を覚ました。
「あら、起きちゃったみたい」
美羽は夕菜に手を伸ばして、何かを喋ろうとしていた。
頼む! 俺は願った。『まぁま』は、『まぁま』は止めてくれ。何故かは知らないが、魔神が目覚めて暴れだす予感がするんだ。
「ねぇね!」
ありがとう。ホント、ありがとう。
俺は美羽に向けて親指を立てた。きっとこれまでにないさわやかな笑顔を、俺はしていたことだろう。
そんなはずはないのだが、美羽も親指を立てて応えてくれたような気がした。
いい娘だ、と思った。きっと、賢い娘に育ってくれることだろう。
桜の木を見上げる。
儚くて、ゆえに綺麗な花。
ひらひらと舞い落ちる桜の花びら。
不意に、目の前が涙でにじむ。
ああ。もともと、僕は泣き虫な方だったね。
『毎年、桜の花が咲く季節になったら、一緒にお花見をしようね』
思い出して、皮肉げに口元をゆがめた。
――ウソツキ。
一通り嵐が過ぎ去り、あとにはある意味すさまじい光景が残った。
酒瓶や缶がそこらに散乱し、とても見られるものじゃなかった。
澄乃。そこには誰もいないよ?
真紀子さん。もうその一升瓶は空です。
茜さん。そんな格好で寝ると風邪をひきますよ。あ、でもシトラスが覆い被さっているから思っているよりは寒くないのかも。
あいつら、いつまでトイレをがたがた揺らしてやがる。
もういっそのことこのまま帰ってしまいたい。彼らのことを何もかも忘れて、このまま帰ってしまいたい。
「でも、そういうわけにもいかないんだろうなぁ……」
とりあえず、散乱した空瓶や空き缶、食べられることなく地面に飛び散ったおつまみを分けて回収する。
燃えるごみと燃えないごみ、資源ごみに分けて。環境は大切にね、の精神である。
幸いといえるのは、酒が抜けた状態でフルールが目覚めてくれたことだろう。
はじめフルールはきょとんとして、自分がどうなっていたのかを訊いてきたので、酒に酔って沈んでいたと説明した。
実際は酔う前に沈めたのだが、当然、わざわざそんなことを教える義理も義務もない。
とまあ、そういうわけで、子供ふたりを兄貴と夕菜に任せ、俺たちは後始末にいそしんでいたのだった。
「潤様」
突然、フルールから声がかかる。
「ん?」
「お花見、楽しかったですか?」
「まあね。片付けは大変だけど」
「私は、お酒が入ってすぐに寝てしまってたみたいですけど、それでも、やっぱり楽しかったですよ」
「そりゃ、よかったな」
「はい」
そうして片付けを再開する。
「あの、潤様」
「なんだ?」
「毎年、桜の花が咲く季節になったら、こんな風にみんなで一緒にお花見をしましょうね」
一瞬、呼吸と思考が止まる。
一度、目を閉じる。不思議と頭には何も浮かんでこない。
そして目を開ける。近くに鏡がないから、笑っているのか、泣きそうな顔をしているのか、わからないけれど。
「そう……だな。うん。そうしたい」
そのとき、大きく風か吹く。
舞い上がる、桜の花びら。
風の辿り着く場所は何処か。
目を閉じて、誰にも気づかれないように、多分、涙を流さずに、少しだけ泣いた。
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